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わらび座のミュージカル「政吉とフジタ」、秋田の豪農平野家の政吉と、
エコール・ド・パリの寵児・フジタ。たんなるパトロンと画家の関係をこえた結びつきと
時代に負けない二人の生き方はみごたえがありました。脚本は内館牧子さんで、

私は内館牧子さんのドラマのいいファンではないですが(テレビをあまりみないので)、
講演会や本やお芝居(ご本人がオンザステージだ)で知るにつれて、
作品だけじゃなくて、生き方そのものが魅力的なひとだなあと思っています。

「政吉とフジタ」の出会いは昭和10年の二科展でしたが、そのあと、日本は第二次世界大戦へ。

トレードマークのおかっぱ頭を坊主頭にして、「河童から毬栗に変身さ」と嘯くフジタに、
秋田から上京してきた政吉は、単刀直入に戦争画をやめてください、と訴える。

戦争画を描くことは軍への屈服か、画家として戦火を描くことが楽しくてたまらないのか、と迫る政吉に、
戦争画は戦争賛美ではない、あれは記録画だ。俺が描く戦争画は一流の記録画だ、と言い切る。

昭和18年、《アッツ島玉砕》が国民走力決戦美術展に出品される前夜、という場面でした。

フジタはこの絵は政吉にささげる、為書きにそう書く、とよろめきながら帰る政吉に声をかけます。
(しかし、ご存知のようにこの絵は、「無期限貸与」として国立近代美術館にあります)



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国立近代美術館のコレクション展「誰がために戦う?」の戦争画やその構成がよかったので、
記念に帰りにグッズショップで買った本。図書館から戦争画の本をいろいろ借りて読んでいたのですが、
手元にも1冊ほしいなあと思っていたので、この「別冊太陽 画家と戦争」を買ったのでした。



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さて、「政吉とフジタ」のほうですが、政吉が秋田へ帰ってアトリエにひとりになったフジタは、

亡き妻マドレーヌに話しかけられます。


マドレーヌにも、俺の絵は一流の記録画だ、というフジタですが、

あなたには迷いがあるわ、あの絵の隅にそっと描かれた青い小さな花。あれは勿忘草ではなくて。

やるなら思いっきりやりなさい。でも私はそんな迷いのあるあなたがすきだけれど、

そんなことを言って、マドレーヌは闇に溶けるように消えます。


えっ!

勿忘草ですって!

と、この本をじーっと見てみたら。





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フジタのサインの近くに、ちいさく描かれた勿忘草がありました!

おそるべし内館牧子。「政吉とフジタ」を見に行かなかったら、私は絶対気づかなかったと思う。
すでに《アッツ島玉砕》は、常設展示で数回みているはずなんだけど。節穴ね。

武蔵野美術大学卒業だし、『失恋美術館』の著書もあるし。

脚本家・作家という職業柄、なんとなく文学部卒ではないかと漠然と思っていたのでしたが、
武蔵野美術大卒、となにかで読んだときはびっくりだったなあ。

戦争画を描いた画家たちは、戦後、当時のことを懺悔したり、なかったことにしたり、時局柄仕方がなかった、と語ったりしているのですが、

藤田嗣治はひとり、戦争画家として責任を問われ、日本を離れパリへ戻ります。

舞台ではこのパリへ発つフジタは髪は白髪になりましたが、相変わらずカッコよく、
戦後の農地解放で資産のすべてを失った政吉も美術館設立へ向けて立ち上がり、
貧しい小作人の娘だったリヱは、女子医専を出て女医として秋田へ戻ってきていた。

平野政吉美術館は昭和42年(1967)5月5日、こどもの日に開館され、
藤田嗣治は1968年1月29日、チューリッヒの病院で亡くなりました。

フジタより10歳年下の政吉は平成まで長生きし、1989年、93歳で逝去しました。



藤田嗣治の戦争画をはじめてみたのは、3年くらい前です。上野の東京都美術館で、
真黒にしか見えない、巨大な絵で、かわいらしい少女や動物を描いていた画家がなぜこんな絵を?
と驚いて、忘れられませんでした。私は大人の女を描いた作品より、猫や少女や子どもや、日常の子まごましたものを描いた作品がすきなのですが、激しい印象を与えたのは真黒な絵でした。

その後、国立近代美術館の常設展で藤田嗣治の戦争画を見ることがあり、
藤田嗣治の絵も、ポーラ美術館をはじめあちこちで見るようになり、

それらの絵を見ながらいつも、戦争画を描いたひとなんだよなあと思っていました。

イメージの数珠つなぎで、フジタの戦争画と現代美術の騎手の絵が重なるのですが、

それはまたちがうブログに。


ではでは♪