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《この子を残して》原爆投下 1983年 鉛筆、水彩、紙

成田亨さんは1929年9月3日、神戸に生まれています。

私はずっと青森だと信じていました(笑)。なんてこった。
だって青森出身のマンガ家、成田美名子さんもいるし、青森の本屋さんといえば、代表的なのが成田本店だ。支店本店の本店じゃなくてブックストアの成田本店なんですが、

というように成田さんという苗字は青森に多いので…。お母さんが神戸でお父さんが青森なので、
翌4月からは青森で育ち、8歳で兵庫へ、やがて神戸へ、敗戦後青森へと


10代までは兵庫ー青森間を行き来しているような年譜である。

青森県立美術館でギャラリートークに参加したとき、成田さんが兵庫県摂津市で空襲に遭い、

さらに転居先の神戸でも空襲に遭ったということを知った。その絶望感は計り知れない。

青森県立美術館で《成田亨展》を見たときには、まだ長崎に行こうとは思っていなかった。
ただ、このとき、《この子を残して》というタイトルは深く刻まれたのでした。

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映画『エノラ・ゲイ』の準備台本を渡された昭和56年から成田さんは原爆について資料をあつめはじめます。

原爆について、多くの本や資料や映像があるような気がしていましたが、
実際には原爆の爆発の瞬間についても、広島のウラニウム爆弾と長崎のプルトニウム爆弾の違いなど、調べようもなかったそうです。

『エノラ・ゲイ』は製作されなかったけれども、成田さんはずっと資料を集め続け、
松竹で木下恵介監督が永井博士の『この子を残して』を映画化することになり、



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《バルンガ》1965年

怪獣のデザイン画の方が20年ちかく先に描かれているのにも関わらず、
長崎の原爆の絵を描いてからこの怪獣を生みだした、と錯覚させてしまう。



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特撮プランの大浦天主堂。

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爆心地0地帯に移設された、大浦天主堂遺構。
一部は長崎原爆資料館にもあります。


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この子を残して 廃墟の長崎

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大浦天主堂の旧鐘楼。


青森県立美術館に行ったことが、長崎に向かわせたのでしょうか。

いまになって、ああ、そういえばあそこでも見たなあ、と思い出して重ね合わせているんです。


いろんなことの種はいつ蒔かれているのかわからない。
成田亨さんがデザインしたとは知らないで円谷プロという名前だけを知っていた子ども時代から、

いつか長崎に行って大浦天主堂を見ることになっていたのかもしれない。

成田亨さんが武蔵野美術大学の彫刻研究科に進学し、映画「ゴジラ」の製作に参加したという、
年譜の中の1文も、きのう『アオイホノオ』に影響されて、

伊福部昭さんの≪ゴジラ≫を聴いたのですが、まるで布石のよう、と思ってしまうんでした。

盛岡の映画館でデジタルリマスター版の『ゴジラ』を直子さんと息子と共に見たときには、
まだ伊福部昭も成田亨の特撮美術も知らなかったのになあ。

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(渋谷シャンテのゴジラ。最期の一匹には見えない、確かに)


戦争や原子力爆弾について考える切り口やきっかけはありとあらゆるところに
あるのかもしれません。気づこうとすれば。