『日本空襲の全貌』 平塚柾緒編著 洋泉社 (2015)
図書館で戦争の特集展示があって、
惹きつけられるものがあって、借りてきました。
『あとかたの街』は、作者おざわゆきさんのお母さんが体験した名古屋大空襲の記録です。
私はこのマンガを読むまで、空襲といえば東京と大阪しか知らなかった。自分がかつて住んでいた青森や盛岡や、小説か伝記でチラッと読んだことがある横浜や神戸の空襲、それだけ。
日本中が空襲に遭い、街が跡形もないありさまになっていたなんて。
私の祖父は難聴で障害者だったために戦争にはいかなかったのですが、
(1912年生まれですから徴兵の年齢ではあったのですが)
板金工だったため、中島飛行機というところに徴用されて(岩手から!)、母に聞いた話では三鷹に住んでいたそうです。
中島飛行機というと、渡辺えりさんのお父さんもそこで学徒動員で働いていて、空襲の噂があがり、誰かが工場に残って工場と運命を共にしなくてはならない、ということになり、醜い押し付け合いのすえ、若い、家庭もまだない学生にその役が回り、心の優しいえりさんのおとうがその役を引き受け、結果として空襲はなかった、
そんなエピソードを講演で聞きました。
その時もふと、もしうちの祖父さんが同じ工場にいたら、祖父さんは押し付ける側だったのだろうかと思ったのですが、
中島飛行機がどこにどれだけ工場を持っているかは知らなかった。
三鷹に住んでいたというのが母の記憶違いではないとしたら、
武蔵製作所ではないかと。
昭和19年12月3日、
昭和20年1月9日、
1月27日、
2月19日、
3月4日、
4月1日、
4月2日、
4月7日、
4月12日。
こうして度重なる空襲でついに首都圏で最大の航空機工場は壊滅させられたのだった、
という記載をよんで、
しかし、
私は母(当時7歳)からも祖母(当時23)からも空襲のことを聞いたことがなかった。
いつ岩手に戻ってあの場所に住みついたのか、全然知らない。
うちはおじいさんが難聴だから戦争に行かなかった、と小学校のころ知って、
父は終戦時5歳で農家の子だったが、
父の父が戦争に行ったのかどうかも、知らないのである。
自分でもいまのいままで疑問にも思ったことがないというあたりがおそろしい気がする。
祖父は徹底したエゴイストだった。
近所の地主とも職場の社長とも祖母以外の家族全員とも、常にケンカ腰だった。
宗教もコロコロ変えた。宗教をやっていてこの傍若無人か!と子ども心にも矛盾を感じた。すごく調子のいい、愛嬌のいい笑顔と暴言と暴力が5秒単位で入れ替わるようなひとだった。
そんな祖父は70歳から献体の希望を出しており、92歳で他界したのだが、
献体すると遺骨が遺族に戻ってくるまで1、2年かかり、葬式と納骨のタイムラグというものが不思議な感じだった。
いったいあの祖父はどんなひとだったんだろう。
戦争当時、3人の小さい子と病弱な妻(祖母のことだ)を連れて空襲の激しい工場にいて、
戦後岩手に戻ってなにがどうしてパン工場の経営に至ったのか。板金工だからパンも菓子も機械は自作して安く上がったからよかったのか。
戦争が終わったからパンなのか。
しかし、祖父は地主との契約なんか無視して豚小屋を勝手に作り、ヤギに羊に黒うさぎに鶏まで飼って手広くやっていたらしい。ちょうエゴイストで思いつき人間でひとにどう思われるなんて考えないのである。
物凄くよく書き(手紙も仕事の日記もこまめに書いていた)、よく喋り怒鳴り体罰基本だった。嫌なジジイだった。
なんで戦時中の話をしたことがなかったんだろう。
一度だけ母が外にいたら敵機が低く掠めるように飛んできて、赤ん坊だった妹をかばってずっと身を伏せていた、というような話をしたことがあったけれど、それだけだった。
聞けば話したかどうかは分からない。
戦争の記録の本を読むと、祖父もこの時代を生きていたんだなあと思える。まったく理解できなかった祖父だったのだが。