試写会では撮影はお控えください、ということが多いんですが、
お話のさまたげにならない程度に、ということで撮ってもよいということに。最前列に座ってよかったなあ。手榴弾の爆音で飛び上がったけれど。
進行役のフォーラムの方。
「《野火》ってなんて読むのかと思いましたよ」という言葉に衝撃。大岡昇平の『野火』、武田泰淳の『ひかりごけ』って読んでいなくても、誰でもなんとなく知っていると思っていました。
戦争を知らない世代にも、溝があるんだなあ。
トークでは、
高校時代『野火』に衝撃を受け、20代のころから映画作品にしたいと考えるようになり、
30代でもずっとつくりたいと思っていたけれど、
40代では本気でつくろうと思って、レイテ島に行った人にお話を聞いたり、
英語でプロットをつくったりしていたそうです。
でもフィリピンで撮りたい、と思っていて、資金集めが大変だったと。
今回の撮影では、キャスト兼スタッフもできるひとを集めて、
それでもフィリピンロケでは日本から4人、現地で2人という少数精鋭だったそうです。
監督が声をかけた俳優さん女優さんは3名で、あとはオーディションで、
条件は、
「やせること」(いま太っていても撮影までに痩せればよし)
「日に焼けること」
「髭をはやせること」
どうやるかといえば、定期的に写真を送ってもらって、それで選ぶんだけど、
最後までずーっと太ったままのひとがいて、いったいなにをやりたかったんだろう、
と話されて、会場に笑いが。
私は1963年生まれですが、最近気づいたことがあり、
それは私が子どものころは戦争マンガが多かったな、ということ。
巴里夫先生が戦争マンガについて対談しているのを読んだら、
当時は戦争から帰ってきたひとが編集者にも多かったということもあり、
戦争マンガへの反応もよかった、と。
『はだしのゲン』がいちばんインパクトがありましたが、巴里夫さんの『赤いリュックサック』で
学童疎開の悲惨さを知りましたし、池田理代子さんのマンガの中にも、原爆をモチーフにしたものがあります。原爆そのものを描いたのではなく、後遺症やその差別に苦しむ家族と恋人たち、というお話だったと思います。戦争マンガはショッキングでしたが、当時描いてくれたマンガ家の先生や編集者の方に感謝したい気持ちです。大人になった今、そう思います。
私とそう年齢の違わない監督もおそらくマンガも読んだろうし、水木しげる先生の戦記ものも読んだだろうし、戦争に関する資料や映像も多く読み、調べ上げたと思われます。
けれども、
なによりもレイテ島に実際に行って還ってきたひとの話を聞いたことに、監督の情熱を感じました。
戦争体験を語る会や、語り部というひともいますが、口に出すことができない体験をしたひとが心を開くには、よっぽどの決心がいると思われます。
お聞きした話は、映画にできたことは実際にレイテ島にいったひとが体験したことに比べたら、
ということをおっしゃっていたのが印象的でした。言葉を丁寧に選び、南方で餓死寸前の状態で戦って
いたひとへの敬意を忘れず、私たちに伝えるべきことを伝えようとしていたように思います。
質問に手をあげた年配の男性の言葉が忘れられない。
私は昭和7年生まれで、戦時中は軍国少年でした。
3人伯父(叔父)さんがいて、ひとりはシベリアで病死し、
ひとりはニューギニアで餓死ということになっているけれど、戦争で餓死とはどういうことだったのか、
大岡昇平さんの『野火』を昔よんで、叔父は「サル」として食べられたのか、それともサルをたべたのにも関わらず餓死したのか、きょうはそれを知りたくてこの映画を見に来ました、
そしてこの映画をつくった監督への感謝と、戦争を二度と起こしてはいけないというメッセージをこめた作品をこれからもつくってほしい、そう語り終えると、
会場から静かな拍手が沸き上がって、しんとした。
映画をできるだけすくない費用でつくるために、スタッフ・キャストを兼ねてロケをやっていると、
おなかも空いているし、だんだんみんな元気がなくなり、
声も小さくなり、淡々とした静かな現場でしたよ、
という監督のお話も笑いを呼んだけれど、そういう状況に身をおいてこそ、《野火》を作れると思うところもあったのではないかと感じた。予算をふんだんにつけることができたとしても、たぶん、そういう方法で映画を撮ったような気がする。
映画《野火》を撮ってくださって、ほんとうにありがとうございます。
息子も連れて、もう1回見に行きたい。
フィリピンの青い海と濃い緑、
真黒に日焼けしてぎらつく眼玉をした兵士と、
飛び散る血、肉、
地面を覆う死体、這い回る蛆とヒル。
日差しの強さが強烈なコントラストを生み、
影が濃かった。
ぜひ映画館でご覧くださいませ♪
ではでは♪