{E1589C04-F138-45FD-94C7-A7DD904BAC94:01}

きのう、8/1(土)19:00~ 盛岡劇場 で見た、
劇団よしこの《楽屋》の感想です。

いつもオリジナル脚本ですが、今回は清水邦夫の《楽屋》。日本でもっとも多く演じられているお芝居なのだそうです。ネットで検索して、ああ、この女優さんたちも演じていたんだ、と一端を知りましたが、

戯曲自体はまだ読んでいなくて。


《楽屋》というタイトルと、チラシにあったあらすじの紹介から、


中原俊監督の《櫻の園》(アントン・チェーホフの《桜の園》を創立記念日に演じる伝統をもつ、女子高の演劇部の物語で、吉田秋生の原作と比べて賛否両論あったが私はすきだった。中島ひろ子、つみきみほヴァージョンの方)のような感じかなーと思っていました。


チェーホフということと、あちらも女子高でキャストもスタッフも女生徒ばっかりという点が同じですが、想像していたものとは全然ちがって、おもしろかった!


有名なお芝居のセリフが引用される舞台だというので、楽屋の鏡に向かいながら女優たちが、すきな芝居のすきなセリフを引用しながら話をしたりしながら、幕が上がるのを待っている、幕があがるまでのお話なのかな、と思っていたんですよね。


ところがたんなる引用ではなく、三好十蔵の《斬られの仙太》をカッコよく演ってくれるんですね。


楽屋では、アントン・チェーホフの《かもめ》のニーナを演じる、主演女優(でもそのドレッサーの上には高価そうではあるが、お酒がいっぱい…)と、


おそらく大部屋女優らしい、ふたりの女優が化粧をしている。


大女優、


「わたしはカモメ、いいえ、そうじゃない、わたしは女優」


というニーナのセリフを確認しているんですが、

あれっ?


手をバタバタさせて、あからさまな大根女優っぷり。

いいのか!


彼女がワインを呑んで(それもいいのか!)舞台に出て行ったあと、


ふたりの女優が40歳すぎての若作り、と陰口を叩きながら、化粧を直したり、

それぞれが演じてきた役の話などをしている。ふたりはどうやらずっと長くつきあってきたという

仲間ではないみたいなのだ。


ふたりとも主役には縁のない、プロンプターをやってきた女優のようで、

首に赤い染物のネッカチーフをまいている女優の方は、

プロンプターが板につきすぎて、声も演技もこじんまりしていておかしい。


こめかみに大きな火傷のあとのような傷がある女優は、三好十郎の《斬られの仙太》をやったときのことを思い出してやってみせる。これが上手い。


やがて、《かもめ》の舞台が終わった女優が楽屋にもどってくる。


プロンプターとイキが合わず、セリフをとちった、と腹を立てているのだが、

その前にプロンプターをやっていたという、

「キイコ」(と呼ばれているが、パンフレットには女優Dとだけある)登場。勝手に、


奇異子


と名付けておりました。

だってほんとうに奇異な子なんだもん。


薄手の白い布を使ったワンピースは、病人の寝間着風でもあり、抱えているのは枕。

大女優にあなたは疲れているの、疲れには睡眠がいちばんよ、と澄み切った笑顔(それが怖い)で押し付けるようにしつつ、

女優という残酷な仕事からあなたを解放したいの、とにっこりする。

ここから、

《かもめ》のニーナ役ではものすごい大根だった女優が、

女優魂を見せつけます。

枕を持ったキイコを追い出そうとして力余って突き倒し、キイコはかろうじて立ち上がり楽屋を出て行きます。

最初からいるふたりの女優(じつはふたりともこの世の人ではない)は一部始終を見ていたのだが、

ふたりの生きている女優にはその気配だけで存在を知られていなかった。

が、

ふたたびキイコが戻って来たとき、
キイコはふたりに話しかけ、

大女優には存在を気づかれることもなかった。

大女優は舞台衣装からカツラを取り化粧を落として、

また舞台のあとに食事に招ばれているからと黒のドレスに着替え、化粧を施すのだが、

この化粧を落としてまたメイクによって女優の顔になっていくところもおもしろかった。

彼女には見えない三人の女優を楽屋に残し出て行く姿は、女優そのものの驕りと華やかさがあった。


残された三人の女優たちが話しをし、互いの傷口を抉り合うようなところもこの場面では穏やかになり、

三人いるのだから、と、チェーホフの有名なお芝居をはじめる…楽屋にあった衣装を着せあい、いつの間にか《斬られの仙太》の脇役とプロンプターをやっていた女優も、

プロンプターばかりやっていて、唯一の機会も残念なアクシデントにより逃した女優も、

マクラを持った女優も、

黒い衣装をまとい、お芝居の中の場面に女優というもの、自分たちのいまの状態を重ね合わせ、声を張る…


天井から降り注ぐように銀の雪(ひし形っぽい銀の雪)と、白い薔薇(紙の花なんだけど、繊細につくられていて、ボッティチェリの絵に降っている花みたいだった)。


唯一の生きている女優も、楽屋に棲みついた三人の女優も、女優であるかぎり寄る辺なきものなのだろう。

けれども、観客として舞台を見る側である私たちも、寄る辺なきものではないのだろうか。

女優の楽屋らしく、藤の花と蔓(に見えた)の装飾のある姿見があり、

最初と最後に舞台中央に置かれた姿見には観客が映し出している。

また、三人の女優が《楽屋》全体を貫くテーマを語る場面でも手鏡がつかわれていたのだが、

鏡と女優と、楽屋と幽霊(と言ってしまうと身も蓋もないですが)、女優と幽霊(というより芝居をしたいという魂)、楽屋と鏡の相互関連についても、ちょっとぼんやり考えつづけてしまった。


楽屋に飾られた有名な演劇のポスターが、劇団よしこのお芝居のポスターのアレンジで、

最後に三人の女優がやったものは、

ズバリそのままのポスターだったり、

《かもめ》の大きな看板が舞台の端の下にあるんだが、凶悪なカモメの顔のイラストが大きくつかわれれいて、パロディを楽しんでいる雰囲気があって、幕が上がる前から楽しかった。

高い天井からのカーテンの数々や、薔薇の花のテーブルクロスや、豪華な楽屋用のスリッパなど、華やかで英国調のインテリアも、見所でした。


劇団よしこのお芝居は年に一度、夏だけなので、もう来年まで会えないので、

楽日のきょうも見ようと思います。