{A2A7FFAD-7412-41AF-830B-2F42ECC8C701:01}



講演会&ミュージアムコンサート

棟方志功が愛した津軽三味線の演奏を交えて、世界の棟方に駆け上がるまでのエピソードや裏話を棟方研究の第一人者が語ります。

・講演会「萬鉄五郎と棟方志功」
講師:石井頼子氏(棟方志功研究・学芸員、棟方志功令孫)
・津軽三味線ミュージアムコンサート
演奏:三代目 井上成美氏(津軽三味線奏者)

日時等

日時:平成27年7月26日(日曜日) 午後6時~8時
会場:萬鉄五郎記念美術館
入場無料

きのう行ってきました~。

かなり無理やりでしたが、行って、講演を聴いて、
津軽三味線の生演奏(マイクなしでも音がよく響いてよかった)を聴いて、

なにより棟方志功と萬鉄五郎をすきで集まったひとたちがの熱心さが会場に
溢れていて、勢いがあった。


{24CE6E75-7245-42F5-9FAA-E452F3FE137D:01}


18:00~だし、夜間の運転は苦手だし、風邪っぽいし、行くつもりはなかったんですが、
気が付いたらアクセルを踏んでいまして、

いやそれはアイーナに点字課題を提出に行くためだったんですが、
(ついでに返却期限ギリの本を返す)

気が付いたら高速を飛ばしてました。開始には間に合わないけれど、
少し遅れても途中からでも聴こう、

という気持ちに変わったのは紫波あたりでしょうか。矢巾あたりでは引き返すかどうか迷っていたんですが。


しかし花巻を過ぎたあたりでピンチが。

ふと見ればガソリンの残りが0である。0になってからも20kmは走れるけれど、
でも帰り真っ暗になってガソリンスタンドまで遠かったらこれは悲劇ですよ。

土沢の萬鉄五郎記念館まで700mというあたりでGSを探して(ついたときはまだ
まだ明るかったから)、大急ぎでガソリンを入れて、

もちろん大急ぎで会場へ。

展示もある2階が会場だったんですが、
棟方志功のお孫さんにあたる石井頼子さんの声がよく響く声で、

あれ?1階の展示室から声が聞こえる?と勘違いを誘うほどでした。

満員御礼で立ち見かな、でもいいや、せめて見やすそうなところで立ち見しよう、
と思っていたら、美術館の方に前のほうの席がスポッと1つだけ空いているところを
指し示されて、一緒に入ったふたりの女性が気になってうしろを振り向いたら、

私たちは2人だからいいのよ、と目で譲ってくれている。

なんておおらかでやさしい人々なんだ!

こういう時の自分の強運とエゴイストぶりがたまに厭になるんだけど、
でもおかげでいい席で石井頼子氏の歯切れのいいお話を聞くことができて、
有り難かったです。


ショートカットに黒の上着、黒と白のストライプのワンピースの石井さんは、
ほんとうにはきはきした声と表現力のある方で、講演時間は1時間半くらいだったと思うのですが、
あっという間でした。

棟方志功について、自伝4冊、エッセー10冊も書いていて、自作についての解説も多いひとだけれど、
書かれていないことのなかに事実があるのではないだろうか、と語られ、

棟方志功が著書の中で、「私は萬鉄五郎に首ったけ惚れているのである」と書きながら、

いったいいつ見たのか、いつ影響を受けたのか、それについては書いていないことを指摘し、
(私はその「首ったけ惚れているのである」という文章のある本は読んだことがあるけれど、
ほかはまるっきりなので、なにかに書いてあるものだと思い込んでいた)

棟方志功がどのように萬鉄五郎の絵と邂逅し、どのような影響を受けたのかを腑分けしていきました。


詩人である佐藤一枝が作った雑誌、『児童文学』という雑誌があり、

それには当時新進気鋭の草野新平、サトウ・ハチローなども寄稿しているのですが、
なかになんと、生前の作品発表のほとんどなかった宮澤賢治の『グスコーブドリの伝記』も収載されており、その挿絵が棟方志功。

凄いなあ。見たいなあ。


上質の文章を読ませれば子どもたちがすばらしい大人に育つだろう、という気概をもって
作られた雑誌でしたが、2冊しか出されていない上に、子供向けにつくられた雑誌の宿命として、
残っていない(子どもは本を物理的にも堪能するので、見る影もないのがふつうだ)。

ただ、いまの時代はインターネットがあるから、検索をかけて手に入れたものも展示してあります、
と。

その挿絵のスライドも見せてもらったんだけど、
(石井氏は豊富なスライドとお話で、一秒たりとも余白をつくらなかった)

「一枚一枚に、棟方志功のサイン、志功と入っているんですよね」と笑わせる。
石井氏はサービス精神旺盛な方で、研究したことを語るのにもユーモアとともに伝える、という感じだった。

棟方志功譲りなのかしら、と思ったり、棟方志功を研究しているうちに影響を受けたのかなと思ったり。

ところが一枚一枚に志功と入れるくらい力の入った挿絵を描いたのにも関わらず、

昭和49年刊行の『宮澤賢治全集』の月報には、この絵をかいたこともすっかり忘れていた、とぬけぬけと書く棟方志功。このすっかり忘れていた、というパターンはほかにも何例もお話があり、

棟方志功は自分について膨大に書き、話しもしたが、残っているものだけが事実ではない、もっと重要な事実については研究者が探しに行かないと見つけらないんだな、と感じました。

また、

志功の生まれ故郷青森の東奥日報夕刊に連載された『花は紅』(私なんか 津軽 花はくれない、と聞いただけで佐藤愛子、佐藤紅緑、と連想しちゃったんですが、ちがうひとの作品でした)の挿絵もやっているのですが、

92回、当時東京に住んでいた棟方は青森の作家の原稿を、ファックスもコピーもない時代のことで、
誰かが書きうつしたものをもらって、それで絵をつけて、絵を送る、そんな大変なことをやっていたのにも関わらず、

これも忘れている。
志功は新聞紙にスクラップする習慣があって、この連載の挿絵などもスクラップされていたのですが、
そんなこともしていたのに、年譜にも入っていないそうです。

そして新聞連載というものは、本人が書いていないと目録にさえ入らないものだということも。

すきな作家の新聞連載をすきな作家(こちらは画家)が手掛けたものがあって、
すごく期待していたのですが、その挿絵だけの画集は出されなかった。作家の本はもちろん出版されて、カバーには画家の絵が使われていたんだけど、高くなってもいいから全挿絵収録だったらどんなによかったか。
いつか、とか言っていないで、
あるうちに図書館で新聞をコピーしまくろう!そんなことも考えました。


石井さんは特にギャグを入れるわけではないのですが、その間合いの取り方の勘がいいのか、志功のやることなすことすべてがもともと可笑しいのか、つい笑ってしまいます。

可笑しい、と思うものをキャッチするのが上手いのです。そのユーモア精神はやっぱり18歳まで一緒に暮らしていた祖父である棟方志功の影響が大きいのでは、と思いました。

そしてこの『花は紅』の挿絵のスライドとストーリーの紹介があったんですが、

これもまた捧腹絶倒だった(笑)。




ネット検索で、『花は紅』の挿絵展があったので、
こちらをご覧くださいませ。

これは1937(昭和12)年、青森市の東奥日報夕刊に掲載された連載小説『花は紅』(中村海六郎/著)の挿絵として当時33歳の棟方志功が描き下ろしたもの。津軽を舞台にした青春・恋愛小説の内容に沿って、岩木山を眺める男女や生き生きとした学生たちの様子などを丹念に描いています。
当時の棟方は、国画会に出品した板画「大和し美し」で民芸運動の創始者・柳宗悦に画才を見いだされるなど、板画家として大きな転機を迎えていました。
ほか、豊かな感性あふれる女性を描いた作品をあわせてご紹介し、棟方が抱いていた愛しみの原点をたどります。

女学生3人組と卒業後の波乱万丈と、ひとりの若い男の存在。

いまでいうトレンディードラマですね、とまとめられて、すごく読んでみたいという気になりましたが、もちろん読めません。

この挿絵と、棟方志功がのちに版画作品としたものが共通するイメージをもっている、版画の萌芽があったのではないかという指摘も興味深かったです。


ポスター真ん中の、鬢の髪をワンカール(おシャレだ!)させている女性のポートレートですが、
志功の代表作の「大首絵」の女性と同じ構図であるとして、スライドで比較。

版画は裏返しになるので、向きが対照で、それもおもしろかった。


自分について饒舌に語り、書いているようでじつは書いていないこともけっこう多い棟方志功ですが、
さらに友人が歴史まで変えていることがあるそうです。



棟方志功を版画の世界で磨き上げた、いわば恩師である民藝運動の柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司の三人が映っている写真のスライドを見せながら、

今回出品されている、《大和しうるはし》の絵巻(20図7mの大作)が駒場にある
「民藝館」に買い上げになったとき、建物の建築費が10万円の時代に、200円という破格であったこと、

民藝の3人の写真をもとにした版画、

そして文芸評論家である保田 與重郎(日本浪漫派)は昭和9年から10年に棟方志功と
蔵原伸二郎がであったという事実を(家が近所同士だった。そして蔵原は昭和9年春に引っ越してきたという)、

昭和13年に出会ったとしている。

それは棟方志功を最初に発見し、評価し、磨き上げていった柳宗悦にたいする遠慮からで、
言葉を枉げているわけです、と。

歴史の中で書かれていることが事実とちがうということがあるんじゃないかと思うんです、と繰り返され、
そしていよいよ萬鉄五郎と棟方志功の出会いであります。

萬鉄五郎と棟方志功の双方の膨大な出品作品を、
1階では《第6回春陽会》の萬鉄五郎遺作展を再現した展示室があって、
その中に展示されている、

≪ボアの女≫(岩手県立美術館所蔵)

この絵を棟方志功はいちばんすきだった、という。

参考に萬が《ボアの女》を描くにあたって、影響を受けたと思われる、
ゴッホの≪タンギー爺さん≫のイメージパネルも並べて展示されているのだが、

このゴッホの≪タンギー爺さん≫は『白樺』に《ひまわり》の絵とともに図版が掲載されたものだった。

≪タンギー爺さん≫の背景にはご存知のように、ゴッホが模写した浮世絵の絵が飾られてあるのだが、
そのことが棟方を油絵から版画に向かわせた要因のひとつであったのではないか、という指摘の後、

昭和2年ごろのハガキサイズの版画のスライド。


平塚先生というひとが棟方志功に最初に版画を教えた先生なのだが、

のちに棟方は、


「職人の良さと仕事の良さをごっちゃにしていたかもしれない」
とけっこう失礼なことを言っています、と石井氏のお言葉。可笑しい!

結局平塚先生は技術的なことを教えてくれはしたが、それは「先生」であって、

もっと精神的なものを伝えるのが「師匠」なのである、ということらしい。

しかしほんとうに失礼を通り越して笑えてくるな、そこまでいうと。

ハガキサイズやマッチラベルサイズの小さな版画ではななく、
もっと大きな世界でやりたい、という思いが募って、


棟方は≪第6回春陽会≫に
自作を7点出品し、3点が入選。

「そのころ入選が難しかったが、入選作12点のうち3点」と書く棟方志功。
エッヘン!という顔が見えるようだ。

そして同じ会場に、前年に亡くなった萬の遺作展があり、遺作80点が出品されていた。

「見ていないはずはないじゃないですか」、

と石井氏。しかし、棟方志功は萬の遺作展を見たということは書いていないそうです。

でもたしかに萬の作品を見た後の棟方の油彩画はタッチも色も変わっています、

と萬と棟方の作品のスライドを。

あ~1階に展示してあったあれだな!と思いながら見ていました。

ここで図録から絵を写真にとってブログに貼りたいところですが、
まだ図録は出ていません。が、出るとわかっただけでうれしい。

8月半ば頃完成の予定だそうです。


そして、

影響を受けたいろんなひとの名前が出てくるけれど、
あとの人たちの名前は付けたしで、
1番は萬、萬と2番目以降はすごく差があるんです、

という言葉もうれしかった。

安井曾太郎、梅原龍三郎の名前もあるが、
柳宗悦への遠慮からではないか、と。


ちなみに私は安井曾太郎はいいな~と思うようになってきたんですが、
梅原龍三郎はよくわからないです。前はどっちもおなじように思ってすきじゃなかったんですが、
そのうち梅原龍三郎のよさもわかるようになるんでしょうか?


(まだまだ講演はあるのですが、つづきはまた~)

{3DB250DC-81ED-4AA1-A90E-BC2FAFA1A9BA:01}

ちょっと遅れて入った18:10頃の萬鉄五郎記念美術館。

あ、遅れたのは私だけじゃないんだ、とこのうつくしい二人連れにほっとする。
感じのいいひとたちで、パンフレットを手渡してくれたり、席を譲ってくれたりしました。

{B31B6DD0-B3B8-4EAA-A4E6-38BF806C553E:01}

{4376E2BF-98B9-4AE0-98E7-E476A657A974:01}



石井頼子氏から棟方志功と津軽三味線のつながりについてお話があり、特に棟方がすきだった曲もやってもらえるということで、

(棟方志功がすきだったのは、十三の砂山、弥三郎節、津軽じょんから節)

津軽三味線奏者 三代目 井上成美氏にバトンタッチ。

このタイミングで、

お車の移動をお願いします、

といわれて、講演が終わったタイミングで帰らなければならないひとが
いて、私のクルマが邪魔になっていたようだ。
もちろん駐車場も300%くらいのあふれかえりぶりでした(笑)。
館員の方に言われて美術館の前の煉瓦の階段の前においたので、なにか特等席のようで
いい気になりました(笑)。
で、いい気になって戻ったところで今度は津軽三味線!

2階のホールは萬鉄五郎の大きな作品と棟方志功の自画像と萬の自画像などがこれでもか、
といわんばかりに展示してあるのですが、
そこで三代目井上成美氏の津軽三味線を聴くのはすごく贅沢でした。

音がよく響いて、撥を激しく叩く音とリズムがすごく気に入ってしまった。

青森からきているひとが多かったので、知っていたら一緒に唄ってください、

という、

弥三郎節はこんなに青森の人が来ていたのね!というくらい、多くの人が唄っていたようだ。

あ、弥三郎節とは嫁いびりの歌です。嫁ぎ先で苛め抜かれた嫁が最後にはおん出てしまう、そういう
歌がなぜ人気(笑)。

プログラムは、

1 津軽あいや節
2、 秋田荷方節
3 ホーハイ節~十三(とさ)の砂山メドレー
4 津軽音頭~弥三郎節~津軽三下りメドレー
5 津軽じょんから節

その演奏に会場からアンコールの拍手が沸き上がり、

全部出し切ったあとにも関わらず、


津軽小原節もやってくれました。

三大民謡、五大民謡といわれる代表的な津軽三味線の曲を堪能できてよかった。

私は音楽はほんとうにわからないのですが、撥の音と胴のあちこちを跳ねるように移動する様子、
楽器はひとつなのに、まったく違う系列の音が聴こえる不思議さ。

津軽三味線、考えたら青森にいた間にお祭りなどで何度も何度も聴いているんだろうなあ。
そのときは津軽三味線と意識して聴いていなかったけれど。

講演会とミュージアムコンサートが終わって外に出ようと思ったら、
美術館ボランティアの先輩がにこにこしていて、ちょっとうれしかった。

解説グループの仕事の内容上、なかなか一堂に会することはないので、
こうやってあちこちでばったり会うパターンなのだった。

{512A5C3C-16A6-4022-B47E-F22E60EBACE8:01}

きのうは曇りだったのに、

外に出たら月がくっきりでていてそれもよかったな~。


このあと盛岡まで一瀉千里の私なのだった。