『野溝七生子作品集』も本塚(ダンボール詰めの本。本棚で一覧できたらうれしいが、本棚にお金をかける趣味はない。 自分で作ろうと思いつつ数年経ってしまった)に収めようとして、ちょっと年譜をみてみる。
明治30年1月2日生まれ、とある。
最近、1月2日生まれ、という年譜をどこかで見た、と思ったら、、
7代目立川談志師匠だった。
7代目だったのか。
昭和11年1月2日生まれだった。惜しい。当時は出生年月日と親の届け出の年月日が違えてもいい時代だったみたいなので、1月1日にすればできたはずだ。同世代の倉橋由美子の生年月日はWikipediaでも昭和10年10月10日になっているけれど、エッセイでじつは9月21日生まれで、昔はこういうこと(主生年月日を実際とは違えて届け出ること)がよくあった、と書いてあったので。
明治30年生まれといえば、尾崎翠(明治29年12月20日生まれ)や谷中安規(明治30年1月18日生まれ)や宮沢賢治(明治29年8月27日)や吉屋信子(明治29年1月12日)が同世代だなあと思う。
石井桃子は明治40年生まれで、ついこないだ、その評伝をよみ、講演を聴いたところなので、明治30年と40年のたった10年でなぜこんなに違うのか、なにがあったのか、と思う。
『野溝七生子作品集』には、自伝的長編「山梔」が収められているのだが、幼いころに本をよむ楽しさを知り、女学校を出た阿字子は、兄嫁に徹底して異端視されている。若い女が縁談を喜ぶでもない、夜に散歩したり、だいたいなんなのその髪型、といった感じである。
石井桃子の評伝や自伝的長編にはそんな場面はない。
高等女学校卒業後、1年おいて、日本女子大学英文科に入学している。上の学校にやってください、と頭を下げたら、すんなり、よかろう、の許可が下りたのである。
明治30年生まれの野溝七生子と明治40年生まれの石井桃子のこの差は何だろうと思う。
野溝は9人きょうだいの7番目ということで七生子という名前なのだが、主人公の名前は阿字子。
阿字子が高等女学校を卒業して、義姉に縁談のひとつもない、として責められるところは読んでいてもむずむずする。
また、阿字子の祖父は学者だったので、では家が学問に理解があるかといえば、軍人の父は、
「お前のような腐れ学問」と罵る。自分の父の学問は認めるが、お前なんかのやるものは腐れ学問だと謗るわけだ。
女は嫁にいくのがふつうだ、女が学問なんかしてもなににもならない、という圧力の中で阿字子は本を読み、裁縫学校にやられようとしている妹の進学について、父に意見し、また罵倒されている。
(年譜をみれば高等女学校卒業後3年を経て、同支社女学校英文科に学ぶ、とある。小説の中でも兄嫁京子に高等女学校を出て3年も家にいて、嫁に行くでもなし、自立するでもなし、きょうだいの厄介者いなろうというのですか、と罵られている。)
まるで何十年もかけ離れた時代のことを聴いているようだ。
石井桃子の場合は上の姉たちの不幸な結婚や進学を止められたことが不幸につながった、
というようなことが親たちの反省になり、末っ子の桃子のときにはあっさり許可が出たということもあるが。
野溝七生子は90歳、1987年まで生きた。惜しいなあ。あと少しで平成だ。
石井桃子は101歳、2008年まで生きた。
ふたりの人生はどこかでクロスした時があったのだろうか。