戦後70年記念 家族のてがみ~手紙に刻まれた戦争の記憶~ 盛岡てがみ館 第47回企画展
火曜日に行ってきた展覧会のひとつです。
じつは日曜日にもりおか啄木賢治青春館で「杉本みゆき展 銀の劇場」を見たあと、
間に合うかも~という安易な気持ちでてがみ館にまわったら、
すでに入館時間は終わっていました。不徳の致すところ、というのはこういう時に使うんでしたっけ。
年がら年中不徳ばかりである。
でも館員の方が親切で、チラシや案内などをもってきてくれて、ぜひまた来てくださいねーと
いうことだったので、火曜日に約束を果たすために行った私でした。
この家族のてがみ展が見たかったのは、
その少し前に、朗読劇 戦没農民兵士からの手紙 もりおか町家物語館 を見ていたからでした。
この朗読劇の時も、ホールに戦時中のくらしや兵士の遺品や手紙などが展示されていたのですが、
それにつながる展覧会だなあと思って。ちなみに町内会の掲示板でポスターを見て知りました。
閉館ちかくにやってきた私にいろいろお話してくださった館員の方が、駒井修氏による
ギャラリートーク、もしご都合があえばぜひご覧くださいね、と語っていました。
駒井修氏もこの家族のてがみ展にてがみが出ている家族のひとりで、
戦場の父から手紙をうけとった当時は幼い男の子でした。
オサムという名前から、オーチャン、と呼ばれていて、
戦地からの手紙にはオーチャンやふるさとの家族を思う優しい言葉がつづられていたのですが、
父・光男さんは終戦後BC級戦犯として処刑され、
残された家族も戦犯の家族として戦時中とは打って変わって冷たい目にさらされていたことが
展示からわかりました。
BC級戦犯。
水木しげるさんのお兄さんも巣鴨プリズンに戦後長く拘留されていたことをマンガで読んでいたのでそれを思い出しましたが
不幸にも戦犯にされてしまったひと、という目ではなく、駒井家があの家は戦犯の家だ、お前たちのせいで、という恨みをぶつけれていたことにおどろきました。
父を処刑されるという悲しみのほかに、世間の冷たい目とも戦わなければならなかったのか、と。
戦地からの手紙はすべて検閲を通さなくてはならず、検閲にひっかかる恐れのある手紙は、
外に出た時に市民に托して投函してもらったりしていたようです。
戦犯となった父、
シベリア抑留の地から妻へ送る手紙(この方は過酷な労働を耐え、日本に戻れたようです)
従軍看護婦から息子への手紙。
いろんなひとが家族へ手紙を送っています。
それらはすべて検閲されていたのですが、
中に激戦地沖縄に派遣されたひとの人に托して届けられた手紙がありました。
沖縄戦は本土戦を引き延ばすための犠牲の戦いでした。
展示会場の上のほうに、盛岡市の高松公園の平和の碑、佐藤忠良さんのヒマワリを持つ少女や、
舟越保武さん監修の「平和の像」の写真パネルと、
広島の原爆ドーム、長崎の平和公園などのパネルがありました。
入口のところにあった、マンガでわかりやすく描かれた戦時中の暮らしや、2度の盛岡大空襲のことなど、
私はまだまだ戦争についてなにも知らないなあと思わされましたが、
いい展示でした。