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7月6日、NPO法人うれし野こども図書室さんの

「えほん講座」に参加したときのレポートです。

会場は盛岡市総合福祉センター(若園町2-2)

えほん講座は全5回ですが、毎回通わなくてもいいし、自分にとって関心のあるところだけ、
自分の時間をつくれる回だけという方も多いと思われます。

参考までに、日程の画像です。

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第1回は代表の高橋美知子さんによる、概論「絵本のちからと役割」。


テーブルの上には12、3冊の本が並べられていて、どの本を取り上げるんだろう?と
見渡したりしつつ、開講を待っていました。


最初に、NPO法人うれし野の活動をふりかえって、こういうえほん講座をはじめた最初のころは
ほんとうにふつうの、わが子にえほんの読み聞かせをしているというお母さんがおおくて、

15年前は地域ボランティアはあっても、図書館ボランティアは少なかった、というお話をして、


NPO法人をとってよかったことは賛助会員を募れることで、うれし野の活動は賛助会員のみなさんに
支えられています、と。じつは私もわずかばかりの賛助会員なんです。だからこうやって、えほん講座の
お知らせもいただいているわけですが。


もともとシャイな性格だった自分がなぜこんな活動をしているのか、と会場を笑わせながらも、
絵本のちからに導かれて私費で本をあつめることから活動がはじまり、いまでは絵本と本をあわせて7000冊のライブラリーがあること、

きょうのお話から、腑に落ちるところがあったら拾ってください、

自分自身が本と読み聞かせと子どもたちの反応によって実感してきたことを話す、とおっしゃって、
お話がはじまりました。





最初に紹介されたのは、

『きょうのごはん』 加藤休ミ (偕成社)

最初に、

じつはこの本はまだ血肉になる本ではない、とおっしゃったのが印象的でした。
今回準備された絵本は、なるべくいつも紹介しないものを、と選ばれたということで、
この絵本も子どもたちの前で読んだのは2、3回(だったかな?)。

「何回か読んでみないとこの絵本の力はわからない」と。


この絵本は子どもたちが大好きな(大人たちも大好きな)たべものがテーマなのですが、

こんがり焼けたおいしそうなサンマや、手作りコロッケや、おじいちゃんのお祝いのお寿司、
最後に屋台のおじさんがやる、ネコのごはんまで、

写実的というより、実感のこもった、親しみのある絵柄で大きく描かれたたべものと、
それをめぐるひとやネコが描かれています。






ところでこの絵本はだれの視点で描かれているのでしょう?

いちばん前の席で見ていたはずの私ですが、全然わかりません(笑)。節穴?


こういうのは子どもが気づくの、早くてね、と塀の上でサンマの夕ご飯をみているネコを教えてくれました。

ネコはすべての夕ご飯の場面を物陰からみていたのでした。

そのあと、

最初になぜこの絵本を持ってきたか、というお話がありました。


子どものころ、4年生くらいの時に死ぬことがおそろしくなり、死んだら闇になるだろうか、と考えて、
いまでも死がこわい、

ここに30人いるが、ほかのだれにも自分はなれない。親しい友達はいて、その人がいまこういうことを感じているな、というのはわかっても、そのひとの中には入れない。

絵本のよみきかせは最初は自分が楽しい。だんだん、子どもたちの反応に心を砕くようになり、

一体感と充足感を味わうようになる。子どもたちの反応によって、選書ができあがっていく。

また子どもたちも読んであげているうちに、
目も耳もどんどん変わっていく。のびていく。


なぜのびるといいのか。

赤ちゃんのブックスタートからかかわりをもって、
本を手渡しできる年齢は小学校まで。

本を読んであげること イコール 自分で本を選んで、本をよむようになること。

本をよんであげつづけることの先にあるのは、

自分の考えで本を選び、よむ力をもつひとりの自立した人間なのだと
気づかされました。

この「きょうのごはん」にはさまざまなひとや家庭が登場しますが、
それを通して大人も子どももほかのおうちの夕ご飯や家庭を体験し、

そういう体験を重ねることが、ほかの人にはなれないけれど、
ほかの人のことを想像したり、思いやったり、あるいは尊重したりする、
そういう心を育てることにいずれつながっていく、

その最初の栞としてこの絵本を選んだのではないかな、と感じました。



つづいて紹介されたのは、八島太郎の絵本でした。

八島太郎の絵本は、よい絵本の紹介などでもお目にかかることが多く、
私も短大時代に図書館研究会だったので、「まず読もう200冊」というブックリストで
八島太郎の「あまがさ」と出会って読んだのが最初でした。

でも正直そのころは良さがわかっていなかった。

子どもが生まれる前か生まれてまだ赤んぼうの頃か、
「からすたろう」を読んで、あ、なんだかすごくいい、と思ったんです。

なんでそう思ったのかわからないが、なんだかいい、と。

小学校の図書館ボランティアで先輩ボランティアの方が、
「からすたろう」を読んだときにはもっと、いい!と感じました。

高橋美知子さんも語っていたことですが、
絵本をひとに読んでもらうことは大人にとってもいい体験となるのです。

字を目で追うかわりに、言葉が耳からしみとおって、絵が目から心へすっと入ってくる。

でも、この「道草いっぱい」ははじめてでした。

小学校のころ、学校から家に帰るまでの長い道のりにいた、

村の大人たちの働く姿を子どもたちが見ている、そういうお話です。

というと単調なようですが、


染物屋さんが染めた鮮やかな糸や、

その手がいつも紺色であること、

お菓子屋さんの飴づくりの工程をみたり、
庭先に広げられている傘が、「きのこのようだ」と感じたり、
畳職人の親方の肘が固くなっていることも見て取っていたり、

ひとりでお豆腐を買いに来るおじいさんのことも見ています。


働いている大人を学校の帰り道に毎日毎日みていた子ども。


この絵本をみせていただきながら、子ども時代のいつもの帰り道ではない道から帰るときに、
大工さんが一心にカンナをかけているのを見るのがすきだったことを思い出しました。

私の父も大工ですが、自宅でカンナをかけることはあまりなく、道具の手入れをしているくらいだったので、
うすくひらっと出てくる木の帯を見ているのが楽しかった。

私の子ども時代は昭和40年代ですが、それでもすでに外で見ることのできる仕事はそれほど多くなく、こんなに多くのはたらく大人たちに出会えて、なんて豊かな子ども時代なんだろう、とうらやましく思ったほどです。

絵もすばらしかったのですが、

お話の終わりに、質疑応答の時間がとられ、いちばん後ろの席にいた方から、八島太郎さんの絵は、
遠く離れたほうが立体感があって、際立って見えたことをお伝えしたかったのです、という発言があり、

わぁ!なんてすてきな感想だろう、とそのひとにも好感をもってしまいました。

もう一度読んでみたい絵本です。



この絵本に関連して、

道草の中で、大人になる練習をしている、

という言葉が印象に残りました。

その職業につくための練習ということではなく大人たちの仕事や生き方を子どもたちは
何十回も見て、血肉化しているのだ、と。

絵本を描いた八島太郎のように、

一緒に道草をいっぱいした子どもたちは、あの頃道でみた大人たちからなにかを

子どもは両親だけが育てる存在ではない、
子どものあの愛らしさは多くの人に見守って愛されるために
神様が授けたのではないか、というお話から、


短い時間にいろんなことを吸収するようにできている子どもという存在が、

映像メディアに頼り、ナマの体験が乏しくなっていることを指摘し、
人と相対し、その人の表情や目の動きから全体を感じ取る力が育たないことへの
危惧を、


一言、

人間力が弱くなっていく

と。

絵本の読み聞かせをするときは、選書やプログラムに本番まで不安をもっていて、
それでも子どもたちの生の反応によって励まされ、力づけられる。




子どもたちはもともと豊かな力を持っている。
それを引き出すのは私たちです、

という言葉も併せて銘記した。




『かしこいビル』まつおかきょうこ訳 よしだしんいち訳 (ペンギン社)


かしこいビル、とは女の子の大切なお人形です。旅行バッグを一生懸命
パッキングしたのに、連れて行こうと思っていたビルを忘れてしまった!

ビルは涙を流して、そこから立ち上がって、女の子のところまで旅をします…


この絵本に関連して、

児童文学の原点はなにがあってもハッピーエンド、ということを指摘されました。

生きていく力を与えるために、幸せなひとときというのは何かというのを味わわせる。

児童というのは小学校までのことで、

中学生になったら戦争について、平和について本を読み、考える力がつくけれど、

その前に、まず平和について知ること、そういうお話でした。


自分が子どものころを振り返っても、10歳くらいまで好んで読んだのは昔話や童話で、最後は
勧善懲悪でこぶとりじいさんはしあわせになり、シンデレラは王子様と結婚し、すべてをひとのために投げ出した女の子は、空から星の金貨の恵みを受けるのでした。

主人公がそこに至るまで苦労はしても、最後はめでたしめでたし、であること、
いいひとが報われ、悪い人がやっつけられること。

年齢とともに、でも実際にはその逆もあるな、とか、戦争があるのはなぜだろう、と自分で気づいて、
考えたり、本をよんだりしていく。



小さい頃にきびしい環境で育つ子どももいます。

そういう子どもは、ハッピーエンドの本を読んで、読んでもらって、

現実はこんなに甘くないよ、と思うんでしょうか。

私の子ども時代一番親しかった友達は、

『大草原の小さな家』シリーズが大嫌いでした(と大人になってから聞いた)。

彼女の家は私の家よりは裕福だったように思っていましたが、お父さんがほとんど
家にいなかったのは、アルコールの問題があったのだとこれもあとから聞きました。

私の父親も酒乱だったし、祖父も父も叩いて躾ける、と考えているような殺伐とした家庭環境だし、
だからこそ、私はハッピーエンドの物語にはホッとしたのですが、
感じ方はひとそれぞれなんだなあと思うべきなのか、

不幸の段階があると考えるべきなのか、

彼女が特殊だったと思ってしまえばいいのか。


あ。


でも思い出しましたよ。

『大草原の小さな家』がきらいだ、というのは彼女が中学になってからのことで、
小学校時代彼女もハッピーエンドの絵本をすきだったはずだと。


それは、『ふらいぱんじいさん』という童話で、3、4年生のころ、
クラスのみんなで持ち寄ってつくる学級文庫に彼女がもってきていたものです。

(この絵本はえほん講座で紹介されたものではないです)


彼女のお父さんはコックさんでした。そしてお父さんがコックさんだということを
彼女はいつも誇らしそうにしていました。
フライパンとコック。その関連性にいま気づきました。


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子どもと絵本について考えるとき、やっぱり自分の子どもだった頃や、
そのころの友達について思いが及ぶ気がします。

そういえば、

高橋美知子さんのお話にも子どもの頃の自分をスケッチしたお話が
よく出てきた気がします。

本はよく読んでいたけれど、感想文が大っ嫌いだった、とか。
これは私もまったく同じで、本はほんとうにすきでよく読んでいたけれど、感想文となるとなにも出てこないんです。本もよく読むし、感想文も上手、という子どもたちもいるけれど、


言葉が育つのには時間がかかる、だったか、言葉が心にたまってきてそれが出てくるのに時間がかかる、だったか、そういうお話があり、

子どもの本の優れているものは大人の心をすぐに癒してくれる、

でも子どもたちにはそんなにすぐに効くというものではなくて、

子どもたちはいろんな絵本をよんでもらうことによって、
様々な絵に会う過程で、
耳に言葉がさーっとしみこんでいく。

そのためには継続ということ。

月に1、2回、できたら毎週、絵本をよんであげることで、


子どもたちの心が育っていく。



子ども自身もわからないところで育っていく。

だから読みっぱなしでいいじゃない。
絵本は本の世界に入っていく力をつける。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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講座の終わりに、宮澤賢治の有名な、『注文の多い料理店』の冒頭の
この文章をゆっくりあじわって読んでみてください、と。


私もこの文章がすごくすきだったので、あー、やっぱり
この言葉の選び方や響き方、表現しようとしている大きな世界が
いいと思っていらっしゃるのね、と喜んでしまいました。


盛岡の劇団でも、賢治の童話を演じることが多く、
2年くらい前に見た賢治の童話のいくつかを演じたある劇団が、

冒頭にこの文章を全員で語ったのがいまでも忘れられない。


耳から聴くとさらに染み入る、言い尽くせない力のある文章なのです。

賢治の独特の助詞の遣い方に気をつけてきのう、打ち込んだのよ、という
お話にも頷きました。



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えほん講座の日程です。


息子は中学生ですが、心のやわらかい(よく言えばね!)子どもなので、
いまでも絵本をよむことがあります。


あの絵本、どこだったっけ、とその時の気持ちに近い絵本を探して、
よみたい、という気持ちになることも。

そういう息子をみていると、いろいろあったけれど、まだまだこれからもいろいろありそうですが、
心が結びついているなあと思って、一緒にあるいていけそうな気がします。

ではでは♪