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まずはお知らせから~♪

私もうかうかしていて、きょうこちらのイベントに気づきました。
ギャラリートークについては、前から予定に入れていたんだけど、こちらはノーマークだった、
ということは、追加イベントかな?

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コレクショントーク 特別展示「私が友 保阪嘉内 ―宮澤賢治全書簡」
日時2015年6月20日(土) 14:00
場所松本竣介・舟越保武展示室 .

本展監修者 望月善次氏と学芸員による常設展特別展示「私が友 保阪嘉内 ―宮澤賢治全書簡」についてのトークを行います。(30分程度)

講師:望月善次氏[岩手大学名誉教授、本展監修者]、当館学芸員
定員:なし
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きのう岩手県立美術館の常設・特別展示でやっている、「私が友 保阪嘉内」展も
見てきたのでしたが、

2階の受付のカウンターに、この「私が友 保阪嘉内」図録、希望者の方は
お申し出ください、とありまして。

受付の方に申し出たら、予想以上に立派な図録で、ちょっと申し訳ないくらいだった。

展示されている手紙やパネルなど、すべて網羅されており、

本展のみどころなどの解説も掲載されています。

「私が友 保阪嘉内―宮澤賢治全書簡」展の賢治の手紙は、いま読んでも古臭くなくて、
友達への手紙ということもあってか、賢治ってこういうひとだよなあ~というイメージとはちがって、
興味深いです。

字も味わいがあってよかった。達筆じゃないけど、昔の人の字なのに、案外読める(笑)。
突飛な連想かもしれませんが、賢治の手紙は一部太宰治みたいだなあと思いました。
全然違うタイプのような感じですが、手紙の中にさしはさまれる、短い自嘲が捨て台詞めいていて、あーこれは東北人の感性だなと。


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上の写真の頬杖をついてひとりだけ腹這いになっている学生が
保坂嘉内、その後ろの右から3人目が賢治。

岩手山を背景に、盛岡農林学校植物園にての写真です。

ちなみにこの植物園は岩手大学内にありまして、この賢治たちの写真も
植物園のモニュメントとして見たことがあります。

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展示されていた資料の木喰上人にはあまり関心がないのですが、
柳宗悦という名前に、あれっ?民芸のひとだよね?と食いつく私。
そこから調べればいいんだけどね。



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きのう、キャプションであれれ、と思ったのは恩地孝四郎との類似性が指摘されている、という一文。

恩地孝四郎、「月映」の人だよね、と思って、関連の参考図版の展示が興味深かった。


そしてその後、この「私が友 保阪嘉内」とは直接は関連はないのですが、
松本竣介の『雑記帳』の復刻版を美術館のライブラリーで読んでいたら、

恩地孝四郎の名前もありました。松本竣介の人脈おそるべし。

ちなみに恩地さんは明治24年うまれだから、賢治より5こ上、竣介より21こ上であります。
朔太郎は明治19年生まれで、藤田嗣治とか石川啄木と同じ生年です。萬さんは明治18年生まれでかれらより1こ上。

藤田嗣治が東京美術学校(いまの東京藝大)に入ったのはお父さんが軍医で、その上司(でも年齢は下)の森鷗外と親しく、鷗外が掩護射撃をしたんだったと思う。鷗外は軍医でもあったけれど、帝室博物院総長だし、文学者だし。

そう、文学者だから石川啄木が観潮楼歌会に出ていて、啄木―鷗外も結びつきはあるわけですよ。

じゃあ、啄木が北海道から東京の出版社で校正や給仕をしていたころ、美校を出て絵を描いて結婚したばかりの藤田嗣治とニアミスとかないのか、と思ってみたけど、関川夏雄・谷口ジローの「かの蒼空に」にもフジタとの邂逅なんてなかったしなあ。

啄木は大正を待たず明治45年に夭逝し、翌年、藤田嗣治はパリへ渡った。賢治はその頃旧制盛岡中学で母校の歌人、石川啄木の影響のみられる短歌をよみ、哲学書に熱中していた。


市民農園では畑の周りにロシア向日葵(でかい)を植えるのがトレンドなのか、みなさんよく植えています。
賢治が田圃の真ん中に向日葵を植えていた、というエピソードをなにかで読んだことがあるのですが、

いまだったら田圃に向日葵も奇抜でもなかったかもしれません。

ってことできょうは草取りにいってきます!!