谷中安規、ずっとヤナカアンキだと思っていたのは私だけではなかったもよう。タニナカヤスノリが本名だったのですが、
本人がヤナカのアンキ、を名乗っていたそうです。
きのうのギャラリートークはまずそんなお話から始まりました。このエピソード自体、谷中が物事をストレートには表現しない、捻って反転して裏返す、そんな性向があることを感じさせます。
岩手県立美術館の企画展関連ギャラリートークは金曜日14:00~にひらかれます。
その企画展を企画した学芸員の方が企画展会場をめぐりつつ、作品の解説とともに、
生存中の作家の展覧会であれば作家から直接聞いたことや、鬼籍に入った作家であれば新資料や関係者の証言など、すきな作家であればもちろん、
それまでほとんど知らなかった作家であっても、ギャラリートークの魔法にかかったかのように、目の離せない作家になってしまうのであります。
いま開催中の「鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実」については、
4/17、5/1、5/15の3回があり、きのうは企画展開幕後初のギャラリートークだったので、これは絶対行かなくては!と思っていました。
個人的趣味として、初回や前篇こそおもしろいと感じる。3回をまったく違うように構成することもあると思うのですが、1回目の滾っている感じがすきなので…。
なんなら3回通ってもいいくらいですが、そこまでやったことはまだないです。2回はざらなり。
「鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実」は町田市立国際版画美術館2014年10月4日ー11月24日、岩手県立美術館2015年4月11日ー5月17日の2館で開催される企画展ですが、
町田市立国際版画美術館は版画の美術館ですが、なぜ谷中と関わりがないような岩手県立美術館で開催されたかというと、
岩手県立美術館の原田光館長が当時勤めていた公立美術館で、公立美術館としては初めて(画廊や企業美術館での展覧会はあった)谷中安規の企画展を企画した人物であり、谷中安規についての再評価や研究の緒をつけたからということでした。
図録で確認したら、谷中安規関連文献のなかに、『1930年代の版画家たち 谷中安規と藤牧義夫を中心として』神奈川県立美術館 1987年 があり、これか!と。
そして展覧会会場に入って最初に谷中安規の写真パネルが。明らかに意識されたポーズであり、新聞者の撮影だったそうです。のちに戦後栄養失調で亡くなった谷中ですが、この写真の痩せ方がフランツ・カフカみたいだなあ。菜食主義ということはなかったみたいですが、
変人エピソードのひとつにとにかくお金がなくてニンニクと米だけを口にしていた、
というものがあり、
変人がすきな私が思わず食いついてしまったエピソードですが、あるマンガの中で、お金がなくて食費が一日200円弱なんて無理、というのに、充分じゃねえか、パンにニンニク擦って食ってりゃあお釣りがくる(主人公はマッチョガールです)というものがあり、ニンニクと炭水化物があればいい、という考えはどこからくるものなんだろう。
B足らん予防か?たんにニンニクがすきな人だったのか。
年代順の構成になっていることについて、
いままではずっと時代背景に影響されない、突出した個性というふうに見られていた谷中について、
時代背景と照らし合わせて見ることで、浮かび上がってくるものがあるのではないか、というお話でした。ほかの作家についてなら普遍的な手法が、ひっくり返ってチャレンジになるのも興味深いです。
Ⅰ 1920年代中頃「腐ったはらわた」
これは初期の「妄想」連作(日夏耿之介旧蔵)の一枚ですが、まずいまだったら『進撃の巨人』か!と。
傘を持った人物が前歯の反った巨人の妙に紅い舌の上で手鏡を見ているのも、巨人がウィンクをしているのも、
巨人の奇天烈な髪型も(ツルツルの頭にいきなり総髪…なににヒントを得たのか、私に調べることができるならぜひ調べたい変さである)、太陽と星の書き割りっぽい描き方も、ぶっとい描線も、
ごった煮のシュールレアリズムとなぜかミュシャを連想させる。ミュシャはお星さまを散りばめるのが好きですが、《明星》を見ていたのかなあ?
これはギャラリートークで出たことではなく、なんとなくそう思ったことですが。
(そしてこの作品は岩手県立美術館では展示されていません)
この絵の傘を持ったひとは。空中を浮遊する人になっていたりもして、
シャガールやキリコやムンクを連想してしまうのですが、
(cf ムンクの版画も変でマドンナの周りにあるのは精子のオタマジャクシだそうです)
この版画を始めた頃の作風を一言でいうと、「エロ・グロ」だそうで、エログロといえば乱歩!と思っていまWikipediaで検索したところ、
乱歩は1894年生まれで1897年生まれの谷中より3歳お兄さんだった。《新青年》にエログロ残虐趣味の作品を発表しはじめたのが1920年代なので、
《新青年》は見ていたんじゃないかなあ。これは私の妄想ですが。
さて、同時代の外国の画家の影響についてはいままで研究されてこなかったそうです。
意外だったのですが、例えば日記や手紙に展覧会に行ったとか、蔵書に図録や美術書があれば確定できることだと思われるのですが、本人が美術によらず文学書などもよく読んでいたのに、
焚きつけに使ってしまい、残っていない…またカフカを連想する。カフカは原稿を焼いてくれとマックスに遺言するのですが、谷中はもっと淡々と日常的に燃やしていたもよう。
物欲がなかったといえば言えるけれど、写真もほとんど残っていない、というのは戦争で空襲に遭ったからというより、
自分を消したいタイプの人だったんじゃないかなあと考えたりしました。谷中は詩も短歌もつくり木版画を自画自刻自摺でつくるのですが、《月映》は谷中が18歳の年に公刊されている(図録の年譜が丁寧で読み応えがあります)ので、当時の若者たちの中に文学と美術の垣根を越えた表現への抑えきれないなにかがあったのか?
さらにモダンダンスである。
楽器を習ったりエスペラント語をやれば賢治である。賢治と谷中はおなじ学年なので、この世代の若者たちはなにか新しい表現を得たくてムズムズしていたんだろうか。うーんわからん。
悪魔主義・耽美派の文学者・翻訳家でもあった日夏耿之介との出会いと、展示されていた中で、最初に食いついた手紙。
手紙のまわりに自筆の飾りを入れているのですが、
「妄想ダンス」なのか?
谷中はモダンダンスの名手でもあり、夜中に裸で踊ったのらしい。あの《断食芸人》みたいな体でか!土方巽か暗黒舞踏か!
しかも夜中にお寺の本堂で裸で踊る、と本人の口から語られたということを聞くと、
変人であることを客観視している自分もあって、人を楽しませたり笑わせたりするのがすきなひとでもあったのかなと思う。
Ⅱ 1928-1931 サロメからロボットまで
サロメはわかるんだけど、この頃空前のロボットブームだったらしい。SFっぽい作風はその影響か?
なにかこう、
古賀春江を連想してしまい、
《海》は《窓外の化粧》と並んですきな絵なので、近代美術館で展示されていると毎回撮っています(笑)。都市、女、ビル、意味不明のポーズなど共通するセンスがあるようなきがする…。
古賀春江も詩や文章をよく書いていたし、なんでみんなそんなに書くのか。古賀春江は1895ー1933年。男性です。
こちらは左半分がピカソで右半分はキリコのようだ。相変わらず唐突に魚雷が飛んでいる。画家が右手に持っているのはトンカチ…に見えるのですが。
この父の強権にふりまわされることも多かったのでしょう。
そしてこれらの版画はみな《白と黒》に載ったのですが、版木に一度に数枚分彫り、彫り上がってから切り分ける、そんな制作だったそうです。
41号は谷中ひとり特集になっててしまったくらいですが、
《白と黒》《版芸術》の編集長である料治熊太の留守を任され、
思わず《白と黒》41号を自分特集に…。自分大大大好き!ということではないと思うけど、この行動も谷中ぽいなあとここまできたら、谷中という個性のやらかしを期待しつつギャラリートークに着いてあるいていたのでした。(つづく)