✳︎参考:《アダム》アントワーヌ・ブールデル1861-1929(ヤマザキマザック美術館所蔵)
館長講座2014「柳原義達のこと」で最初に渡された参考資料。
(メモだらけですみません。書きながら聞くのが好きなんです。手が耳の運動と連動したがるというか)
1910年神戸に生まれ、中学在学中に日本画に関心を持ち、卒業後、京都にて福田平八郎に学ぶというのも凄いが、
ブールデルを知って彫刻を志す。
で、上が私の持てる画像のすべてから引っ張りだしてきたアントワーヌ・ブールデル。
《裸体のバルザック C像》オーギュスト・ロダン 1972年頃 ヤマザキマザック美術館所蔵
オーギュスト・ロダンのバルザック像にはモデルがいたそうです。
《バルザックのモデルたりし男》という彫刻があり、腰をかけている中年の男性像なのです。
柳原義達のパリ留学(1953~1957)時代の「小さな大傑作」、《黒人の女》(1956)は30cmほどの小品ですが、《黒人の女》のモデルとなった女性が、《バルザックのモデルたりし男》の世話をしていたそうです。彫刻同士が関わってはいないのですが、一瞬、小さな彫刻が世話をしたりされたりを妄想してしまいました。
そして《黒人の女》の表面は無数の細かい傷で覆われていまして、
傷をわざと細かくつけることで、これは金属だということを示しているというお話に、
深いものを感じました。
(3/23に少し追加して編集しました)
連想したのは舟越保武の《ゴルゴダ》の作家自らがつけた傷跡です。
また、柳原義達の《坐る》(1960)の裸婦座像は、ボルトで台座に固定されておらず、際どいバランスで実際に台座に座っているだけだということも、
「人間は立っている姿がもっとも美しい」
と語っている柳原義達の、
「人体のバランスをぬけぬけと表してきた」の手の声が聞こえるようです。見ろ見ろ、これがバランスということだ、と。
スライドの彫刻はまだ見たことのないものも多かったのですが、《坐る》は実際に見たい作品のひとつです。
背中には抉りとられたような大きな傷を負っている、というところで見たくなった。
傷を見たい。
見なくておられない。
芸術というものの定義はわからないけれど、私には開いた傷口や裂け目から、吹きつけてくる風のことです。
《犬の唄》1961 国立近代美術館所蔵
突き出した左手は犬の従順を見せかけていても、背に回した右手は心は渡さないという意思を示している。
犬の唄 1983 神奈川県立近代美術館鎌倉別館
《犬の唄》1961のボリュームのありすぎる体幹、極端に言えば大地母さながらの腹と腰、胸というより乳房と、危うい綱渡りを見せられるような細い脚。
そのギリギリのバランスに打たれ、ブロンズ像の表面の傷のようなゴツゴツしたマティリアルに打たれる。
なにを意味しているかもわからない時から、妙に惹きつけられる裸婦像で。
ドガの《カフェ・コンセール(犬の唄)》から得た主題であり、《犬の唄》とはパリ・コンミューン時代に庶民の間で流行した抵抗の唄であり、自虐と反発心をあらわしているという。
戦争を辛くも潜り抜けた(終戦の日に召集令状が届いたという)作家自身の権力への抵抗の思いがあったのかもしれない。
同じ主題でありながら表現は変化してゆき、1977の《道東の四季(秋)》=《岩頭の女》は伸びやかで誇らしげに顔をあげている。
こちらも資料としていただいた柳原義達の『孤独なる彫刻』筑摩書房(1985)からの「戦後の私の彫刻観」ですが、
自分の内面にどこまでも深く斬り込んでいくような鋭さがありながら、刻みつけるような言葉がうつくしい石でできた花のようにも感じられる。
(しかし理解できたと油断することはためらわれる)
もっといろいろな示唆に富んだ指摘や、柳原義達と舟越保武の比較など、興味深いお話だったのですが、
この辺で擱筆します。
ボリュームや量感、バランスということについて、もう少し考えたり、いったん忘れたり、また考えたりしてみたいです。
ではでは♪