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1933年、昭和8年はなにがあった年でしょう。

干支は酉だな、とすぐ浮かびます。酉年生まれの伊丹十三とか辻ジュサブローとか赤江瀑の生まれた年だし。

昭和8年は宮澤賢治の没年でもあります。

ちなみに、賢治の生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日には三陸地震津波が発生しています。

「あの年の盛岡1896」は「三陸地震」がモチーフでした。

そして37年後の1933年、

第一部は新渡戸稲造博士の演説と、それに対するブーイング、博士を案じる妻の萬里子(マリー・エルキントン)から始まる。

岩手の偉人・新渡戸稲造博士はお札にもなった郷土の偉人なのだが、

もともと社会科も苦手なので新渡戸稲造については息子の方がよく知っている(小学校はいろんなことを教えてくれるありがたい場所です)くらい。

〈マッサン〉に先駆けて国際結婚をしていたんですね。知らんかった。

その妻のマリー・エルキントンは黒い服をずっと着ているので、

博士のために喪に服しているマリーが過去の新渡戸稲造を案じている、そんな構図なのかもなあと。


昭和8年における日本と世界情勢の描写ののち、盛岡に昭和7年に開院された岩手医専附属病院のドタバタが描かれます。


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中央が婦長、左が宮古出身で、赤狩りに遭い、一時留置所に収容されていた高橋ナース。その同僚でコミカルな演技の上手い池野ナース。

この1部では沿岸の劇団、劇研・麦の会の方による、津波の場面もありました。

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突然の津波に舅と姑を攫われ、夫に済まなないと語る妻と、しかたのないことだったんだ、てんでんこだと宥める夫、幼い娘と母親、妻を探し続ける男。

そして、大津波の3ヶ月後、首都圏からの救援物資によっていきなりおしゃれな服を着ている人々。
3.11で実際にあった救援物資と避難所などで実際に必要としているモノとのミスマッチが思い浮かびます。

劇では東京の人たちはオシャレだなあ、と素朴に語りあう、ユーモラスな場面になっていたのですが。

2部では居候を決めている噺家が全体の語り手になっています。

1部は震災と震災後の情景、

2部は震災の3ヶ月前の、八幡芸妓の華やかさや町火消しの鯔背さ、在りし日の盛岡の八幡界隈をたっぷり楽しませてくれます。

それにしても、そば屋寄席って言ったよね?えっ?そんなにそば屋寄席って昔からあるの?とそこがやはり気になるのであとで調べようと思います。

ここでは「1896年」で八幡芸者の心意気を見せてくれたゆき子の娘こま代をはじめとする半玉3人娘の見せ場もあり、

町火消しの他に、「スボレー」(シボレーか?)のポンプ車が導入されはじめたことなどもわかって、芝居でもありつつ、盛岡史や盛岡の風俗誌なども教えられる舞台になっている。

(虚実綯い交ぜではあるのですが)

そしてここで幕間があり、

3部。

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盛岡演劇鑑賞会でもご一緒の竹鼻裕子さんが3部でいちばん大きな、カッコいい役ですごくうれしかった。

舞台に立つ都度、輝きを増している気がします。

3部はあの宮澤賢治も通った大洋軒が舞台。思わず微笑んでしまったのは、もりおか町屋物語館で見た、森壮已池の「店頭(みせさき)」を想起してしまったから。

宮澤賢治を髣髴とさせる、茶色の革の鞄を抱えた、マントの人物も登場するこの3部は、1、2部とおなじ昭和8年の大洋軒焼失を描いているのに、

なぜか現代に近いと思わせるものがありました。
実際には大洋軒のオーナーは「川村留吉」ですが、女傑「留子」になっています。

ウェイトレスやシェフ、常連のマダム達、

そして盛岡と宮古を往復する昭和の鼠小僧(実在した)。

気丈な留子だったが、火災により炎に包まれ崩れさる大洋軒を前に声を失う。
実際にあった事件だが、纏と鳶口を手に駆け回る町火消しの若い衆が留子に、

すまねぇ、俺たちの力が足りなかったばかりに、と謝る場面もあり、留子を中心に劇が収斂されていくのを感じた。

一人になって、ふと焼け跡にフォークとナイフを見つけた留子はフォークとナイフを持ち、架空の皿に乗ったステーキをナイフで切ってフォークで口に運び、

最後に、

「おなかへったあ」

とつぶやく。ここでホッとした笑いがおこり、

留子は「よし!」と自身に発破をかけ、猛然と焼け跡からシルバー類を拾い始める…



がっくり肩を落として別人のように落ち込む留子を励ますために、劇中のほとんどの登場人物たちが見舞う場面、

雪の中で空想ステーキを平らげる留子と、その向こうに紗をかけたようにみえる、盛岡の留子を励ましてくれたひとたち。

すべてを失ったあと、それでも再び立ち上がろうとする留子の姿で、

「1933年」は幕を閉じた。

降りしきる雪と、廃墟のなかで立ち上がろうとする留子の姿は、きれいごとの希望ではなく、リアルな痛みのある希望を見せてくれた。



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終演後、ホールには役者さんたちが衣装のまま、見送ってくれた。

フーバー大統領、盛岡芸妓、町火消し、ナースたち、宮古町の人々、

たった何時間かの付き合いなのに、何年も一緒だったような変な気持ちで劇場を後にしました。

次は2年後の「2011年」。

どんなあの年を見せてくれるのでしょうか。そして震災から6年後のその年、私はどこでなにをしているのだろうか。