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友よねむれ シベリア鎮魂歌 久永強 絵・文 福音館書店

図書館に行くと、貸出冊数きっかり借りたい…と思うのは私だけでしょうか。

予約してあった本を借りて、きょう借りようと思っていた本も書庫から出してもらって、
んー、でもあと1冊借りられる…いや、無理して借りなくてもいいんですけどね。

と思って、ふらふらと美術書などがあるコーナーによって行って、

長谷川利行についての評論(絵がすくない)とこの「友よねむれ」
どちらにしようか悩んで、絵の多い本に決めました。出版社は福音館書店。
この版型といい、ページ数といい、絵本のようだ、と思ったんです。

画集ではありますが、絵には詩のような祈りのような文章が添えられています。
これは絵本といっていいのではないか。絵本は子どもだけのものではないもんね。


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そして絵本は夢のある、ふわふわした世界を描くものではない。

私はこの場面を「凍りの掌」でも見たと思う。

久永強は1917年熊本県生まれ。

終戦後の10月、帰国だと言われて窓のない貨車に積み込まれ、
20日以上かかって着いたところは雪深い山中だった。



1949年8月30日に舞鶴に帰還。

骨と皮に痩せた男たち、死者の衣服を剥ぎとれ、と命じられる。
生きて虜囚の辱めを受けず、の教えに混乱したのか、自ら全ての指を切断した
青年将校。

ただひたすらダモイ(帰還)の時まで耐え忍ぶしかなかったのだ。


…解説に高杉一郎、という名前があった。

あれ?あれあれあれ?と思って読み進めると、
やっぱり、「トムは真夜中の庭で」の訳者だった。高杉一郎もシベリア抑留を
くぐりぬけ、互いに知らないまま、1949年8月30日の舞鶴港に、恵山丸で着いたのだった。

「画家久永強さんの年譜をたどってゆくと、敗戦後の4年間、私たちはほとんどおなじ道筋を歩いてきたように思われる。どこかですれちがったことがあるにちがいないが、おたがいに知り合うことはなかった。」



久永さんがシベリア・シリーズを描こうと思ったのは、
香月泰男のシベリア・シリーズを下関市立美術館に見に行ったのがきっかけだった。

1987年5月28日。勧めてくれたのは絵を見てもらっていた画家・坂本善三だった。

久永さんは下関在住の戦友とともに見に行って稼働し、時間のたつのもわからなくなった…

ただ、そこには自分のシベリアはこれとはちがう、という気持ちもはっきりあった。

同年8月、久永さんは奥様をともなってシベリアへ行く。

そして1992年からシベリア・シリーズの制作をはじめ、2年がかりで43点を描きあげる。
朝から夜まで書き続け、肺炎をおこして倒れる。そののち、1994年、1995年1996年とサンドの展覧会が開かれたが、体調はもどらず展覧会を見ることはできなかった。

1996年世田谷美術館にシベリア・シリーズ43点全点が収蔵される。

本の奥付は1999年で、シベリア・シリーズを描きあげたあとはずっと体調が悪かったようだけれど、
その後は持ち直したのかな、と思って検索したところ、



2004年8月28日、永眠なさったことを知った。去年が没後10年の
節目の年だったとは…。



香月泰男 《点呼》(左) 1971年 山口県立美術館蔵


香月泰男 シベリア・シリーズ《点呼》

山口県立美術館に行った目的のひとつは、香月泰男のシベリア・シリーズを見るためだった。

やはり、

ダモイ(帰還)

という言葉が深く深く刻まれる。



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戦争画、というものがあることを知ったのは、藤田嗣治の絵だった。

黒くて巨大な画面に蠢くような疲弊しきった兵士がもつれ合っている…


その衝撃から戦争画を描いた画家たちにも興味をもつようになった。


佐藤忠良は彫刻家だけれど、自伝のなかに、シベリア抑留の記憶をスケッチしたものがあった。



はじめて見たシベリア抑留の絵は、盛岡出身の画家、澤田哲郎のものだった。

「友よねむれ」は大型本で、絵が大きくて小刀で刻み込まれたような言葉が深く残ります。