2015年1月2日(金) リニューアル・オープンした黒田記念館。
黒田清輝の代表作である「読書」(1891年)、「舞妓」(1893年)、「智・感・情」(1899年)、「湖畔」(1897年)を鑑賞できる特別室は年3回、新年、春、秋に各2週間、公開となりました。
私は特に、「智・感・情」をナマで見たかったので、特別室の入り口の対面にこの三枚が並んでいるのを見て、感激でした。
黒田清輝の中ではこれがいちばん好きなんですが、
タイトルもポーズも、スッキリしない、腑に落ちない作品です。どこが智なわけ?どこが感なの?ねえ、情の菩薩様の印相みたいな指の組み方はなに?
と謎が噴出である。でもすきだ。
「湖畔」や「舞妓」より「智・感・情」。
(撮影禁止マークのあるものは不可、という注意書きがあって緊張して確かめていたのですが、特別室も展示室も、今期は撮影禁止のものはなかった気が…)
輪郭線(なのか?)のところどころに金色でヒュッと線が描き加えられています。もっている図録ではこの金色の線まではわからなかったし、
SEIKI.ーKOVRODA 1899
ちなみにサロンに出品された「読書」は師・コランの勧めで漢字のサインです。
映像室では黒田清輝の生涯を10分ほどの映像で紹介しており、「朝妝」(現物は消失)」をめぐる裸体画論争や、ビゴーの風刺画、騒動に対する黒田清輝の毅然たる文章が紹介されていました。
「1895(明治28)年4月、第4回内国勧業博覧会が、京都で開催され、黒田は、審査官を努めるかたわら、パリの展覧会で入選した『朝妝(ちょうしょう)』を出品し、妙技二等賞を受けたが、この作品は、日本の女性をモデルにつかった裸体像(ヌード=後姿の)で、公にされた最初の作品でもあったことから批判され、裸体原画取締第1号となり裸体画論争を引き起こした。」
「今多数のお先真暗連が何とぬかそうと構つた事は無い道理上オレが勝だよ兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ」
黒田清輝は十七歳で法律を勉強するべくフランスに留学しますが、絵の道に進みたいと父に手紙を書いており、
この手紙も展示されていました。
天性の好むところが絵にあるならこの道をゆきたい、
その結果の良し悪しは只天にある、
そんな内容でした。
義兄のフランス公使館赴任に従いての留学も覚悟があったと思いますが、
この手紙から連想したのは藤田嗣治が父にあてた手紙でした。藤田嗣治は黒田清輝の学生でしたが、その卒業制作への評価はいまひとつだったらしいです。
黒田清輝はコランに絵を学ぶ一方、美術学校の解剖学の講義も聴講していたということも黒田記念館ではじめて知りました。
東京美術学校でカリキュラムに解剖学を取り入れたのは黒田清輝で、なにで読んだのか思い出せないのですが、解剖学の授業では「解体新書」ではないですが、死体が教材にもってこられた時もあったそうです。
美術館で萬鉄五郎の解説をはじめたころ、黒田清輝と萬鉄五郎の絵を対照させた展覧会図録を古書店で手に入れたあたりからです。
これで「智・感・情」を知って、おー、この絵いいなあ、と。
なんとなく、
黒田清輝ー正統派ーアカデミズムー印象派チルドレンー凡庸
萬鉄五郎ー異端ーアヴァンギャルドーキュビスムー特異
とか思って対立させていたのですが、
私はほんとうにいろんなことについて思い込みだけで話をつくっちゃうキライがあるみたい。無知は罪ですねー。
しかし本を読むだけでは私のような野蛮人には全然入ってこないので、
自分の体をつかって、その絵の前まで目玉を運んでしっかり見る作業が必要でして。
黒田清輝の「湖畔」(発表当時は「避暑」)と、レンブラントの羽飾りのある帽子をかぶった自画像を意識したというトルコ帽をかぶった「自画像」