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「日本ぶらりぶらり」 山下清 ちくま文庫


この本はNOTE読書部でブックレビューに取り上げられた、

「ヨーロッパぶらりぶらり」を読んでみたいと思っていたら、
書店で目に入ったので買ったのです。

山下清の年譜を読むと、胸に突き刺さるようなことがいくつもいくつもあった。


東京浅草に大正十一年三月十日に生を享けた山下清の人生と、
鳥取県境港におなじく大正十一年三月八日に生まれた水木しげるの人生を
重ね合わせてみたり、離してみたりした。

水木さんも絵の好きな子どもだった。言葉が遅いので両親が案じて(3月生まれでもあるし)
小学校の入学を1年遅らせた。

清が養護施設の学園で手工のひとつとしてやった「ちぎり紙細工」に才能を発揮し、
早稲田大学でひらかれた学園の子どもたちの小展覧会では見る人々を驚嘆させた頃、

水木さんはお父さんから、そういう少年がいるということを聞いている。
ちょうど同じころ、水木さんもその画才を見抜いた教頭先生の勧めで
油彩画の個展を開いている。

学校の勉強は苦手だけど、絵の才能では皆を黙らせる凄腕の少年ふたり。


しかし勉強は好きではない水木さんは学校ではガキ大将で、
体育は得意だったから大いに尊敬をあつめていたが、

山下清は父が死んだ10歳くらいから周りに比べて遅れているということで、
侮辱や嘲笑を受け、劣等感に苦しめられ、反抗的になった、と年譜にあった。

その苦しみはいわゆる、普通の人間には計り知れない苦しみだろうと思う。

知能で感情をごまかせない分、人の悪意も蔑視も、心の柔らかい部分を傷めつけるのである。

知能がなんだ。知能指数が高くたって、ひとを傷つけて喜んでいるような
人間のなにが高いのか。と思うけど。

知能の低いという障害もあるけれど、人が傷つき苦しむのを見て嗤うという
障害はもっともっと重いだろう。看過ごされているだろうけれど。

侮辱に対してナイフを持ち出してかるい傷害事件を起こしたりするので、
ますます迫害されるようになった清は、

苦節の果てに、十二歳で養護施設である八幡学園に収容されるにいたった、とある。


そこから「ちぎり紙細工」と出会って、その後は学園で平和に、
(誰からも侮辱されたり、迫害をうけたりせずに)
暮らしたのかといえばそうではなかった。

戦争の跫がきこえる昭和15年から、戦後の昭和24年までの清の放浪と精神病院への
収監、脱走、放浪、下男など下働きの仕事をするがつづかない、その繰り返しは、


まるで自分の息子の将来の姿を見るようでつらかった。

清は私の息子なのである。

幼稚園では息子はつねに浮いていたし、スイミングクラブでもいきなり暴力をふるうので
きらわれていた。

保育園、小学校、療育施設など、いい先生や友達のおかげで、
6年生のいまは落ち着いているけれど、

もし、支援学級のない学区の小学校に入って、放課後も学童クラブに
通っていたら、絶対清とおなじく、侮辱され嘲笑われて、暴力に訴えるしかない、

と孤独に思いつめていただろう。



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「佐賀の有田でヤキモノの絵をかいてしまったので」とあるので、


口絵のこの写真がそうなのかなーと思うんですが、口絵写真にキャプションがほしかったなあ。


清のこの皿の絵がとても澄んでいてすきなのです。


唐突に河井寛次郎から京都でもらった焼き物を壊して残念なことをした、


という文が出てくる。その前に河井寛次郎と交流があったというエピソードはないのである。

でもわかる。河井寛次郎記念館に行ってよかった。


きっと山下清のこのヤキモノの絵をみて、すきだな、と思うためには

河井寛次郎記念館に行く必要があったので私は京都で河井寛次郎記念館に行ったのです。




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河井寛次郎邸。



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まったく当時のままのこの場所に、
私もつい最近行ったばかりというこの偶然にぶるっとする。



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たまたまですよね。たまたまなんでしょうけど、

このたまたまはほんとうに確率が高いんですけどわたし。



(山下清の文章はすごく気持ちよくて、ずっと清の面倒をみていた、

八幡学園の式場隆三郎はいい先生だが、「のでのでので」とえんえんつづく、清の文章をそのままに

して発表したほうがよかったのではないか。


五味太郎に「のでのでので」という傑作があるけれど、やっぱり山下清の「のでのでので」なのでしょうか。




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松江で、松江や鳥取のひとは道ばたのお百姓さんでさえヒキ茶を飲む、と

驚いている。水木プロでも3時のお茶といえば抹茶だそうだし。


山下清のこの「日本ぶらりぶらり」は先生や弟が同行しているけれど、

そこに不意にさしはさまれるいつのことなのか、なぜそうなったのか前後はわからないエピソードがまたいい。


力道山ともつきあいがあり、徳川夢声とも話をしたりしているのだった。



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そして驚くことに、私がうまれた町である岩手県水沢市(現奥州市水沢区)に
来ているんですね。

うちにも山下清の花火のちぎり絵の額にはいったやつがあったです。
もちろん、複製だと思われますが、

昭和32年6月26日、とめずらしく具体的な年月日がわかったのですが、
水沢でやった山下清展(全国巡回展だったようだ)に、

祖父は物見高いので行っただろうし、母は絵がすきだったので
行っただろうなあと思う。記念メダルとか、記念アルバムがすきな祖父がきっと
複製画を買ったんじゃないかなあ。というのが私の妄想です。

「ヨーロッパぶらりぶらり」の赤瀬川原平の解説もよかったけれど、

この本の解説の寿岳章子さんもすごくよかったですよ。

寿岳さんは寿岳文章の娘さんで、お父さんが式場隆三郎博士と古くからの友人であった、
という縁で、

山下清の日記と出会い、その日記に心惹かれる。

ピーンと来るものがあった、というのだ。

樺島忠夫とともい研究室のメンバーをあげての仕事になり、
コピーもなにもない時代に、三冊のノートを原稿用紙に移し続ける。

貧乏な公立大学の研究者たちが、夢中になって山下清の文章をガリ版の
報告書にまとめ、彼の文章のべらぼうな面白さにホレているのだ。

「やっぱりナマの彼の文章はべらぼうに面白い」という寿岳章子さんの文章自体も
相当に面白い。


山下清の文章の魅力を腑分けしつつも、やはりそれは研究者として冷静に書いているのではなく、
山下清の才能に惚れ込んでいるとしか思えない。

「言語研究者としては、ほんとうに愉快な仕事であった。日本語って、どこまでも続くのだなあとは、山下清に教えてもらったことになる。こんな文章、かつて誰に書けただろうか。だから山下清に私たちは今も感謝している。」



あ、いま思い出したのだけれど、東海林さだおが文章を書く上で影響をうけたひとのひとりに、
山下清をあげていました。太宰治が強烈に影響を与えたらしいのですが、山下清の、

「きわめて具体的な表現で、驚くべきすぐれた記憶力を駆使して事がらを書きつづってゆく時、
世の常の文章とはまるで違う楽しさが生じるのである。附加価値のようなものがまるでないところに
偉大な附加価値を生じるのであろう。」


親しみをもち、敬意をはらって清の文章とつきあった研究者。

寿岳さんの解説を読んで、

人とつきあうのって、誰とつきあうのでも親しみと敬意が重要だと気づかされたのである。