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今月の1日2日、小坂演劇フェスティバルで康楽館に通ったのですが、

康楽館、そして小坂鉱山事務所という明治の歴史的建造物の立ち並ぶ
この通りを、

明治百年通りというそうです。

いいなあ、盛岡の岩手銀行中ノ橋支店、もりおか啄木賢治青春館(旧第九十銀行本店本館)
も明治生まれの建物なのですが、
あのふたつの建物がうまく連携していたら、もりおか明治百年通りだな。

ちなみに、康楽館明治43年、岩手銀行中ノ橋支店明治44年、旧第九十銀行本店本館明治43年、
もし、旧盛岡劇場が取り壊しせず保存活用されていたら、大正2年落成なので、明治・大正100年通りということで、

盛岡劇場、岩手銀行中ノ橋支店、第九十銀行本店の
歴史的建造物3つが並んで、けっこう観光目玉の通りになるのでは…。

という妄想をいざなう、明治百年通り。

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康楽館、すごくおもしろい建物だった。
外観もビクトリア朝というか、明治の擬洋風建築で、
このての建物がすごくすきなので、

内部の回り舞台や、桟敷席などにも興味津々だったのですが、
中も外も興味の巣窟である。


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奈落の底へ、ぜひご案内いただきたいものである。
いつか行きたい…寒くないときに(笑)。


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康楽館の演劇フェスティバルのトリを飾った劇団ゼミナールの
「S.O.S」、

劇中の設定が遠野の奥のその奥、という山奥だったのですが、
いい塩梅に蝙蝠が飛んできましてね。岡田美術館で景徳鎮の壺を眺めていたら、

蝙蝠は「蝠」が「幅」と発音が同じなので幸運のモチーフとして
よくつかわれる、というような解説があって、あー、あのとき飛んできた
蝙蝠は幸福のシンボルだったのか!と。家の中に鳥が飛び込んでくること自体、
幸福の前触れという話も聞いたことがあるし。

秋田の小坂で見たお芝居のことを箱根の美術館の景徳鎮の焼き物で思い出す、
すごくスケールが大きい、気がする(笑)。

その康楽館は、この小坂の鉱山の厚生施設として建てられたそうです。
鉱山のイメージは、もっとこう、建築現場というか、土木現場というか、
肉体労働とか、危険とか、そんなイメージでしたが、

小坂鉱山事務所はまったくそんな感じはなかったです。
華美ではないけれど、洗練されていて豊かな雰囲気がありました。



屋根の上にある、3つの小さなとんがり帽子みたいなものは、
ドーマーウィンドーという飾り窓だそうです。この建物がすごく
気になってお土産に公式ガイドブックを買ってしまったんです。

いままであのてのものを「小さな帽子みたいなやつ」と言っていたんですが、

今後は、「ドーマーウィンドー」と正式に言うことができる…
それってただの見栄って気もしますけど。


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夜の雨の向こうに、ライトアップされた小坂鉱山事務所が輝く様子は、
映画「グランド・ブダペスト・ホテル」を思い出させました。
中身はもちろん、全然違うけど!

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雨でぼやけちゃった。

このバルコニー付きポーチ、独特でしょ。

全体的にはルネッサンス風ですが、ここだけイスラム風もしくは
サラセン風などと言われているそう。

細部のひとつひとつが美しく、意匠がおもしろいので、
今度は天気のいい日にカメラ持参で行ってきます!






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記念写真館コーナーがあって、鹿鳴館風?の夜会服に着替えて、
記念写真をパチリ、できるらしい。

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しかし、びっくりしたのはこれ!!

大魔神のポスターですよ。


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だってほら!

今年の夏に秋田県立美術館の「角川大映映画展」のシンボルが
この大魔神だったので…。



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その秋田県立美術館の支柱のない、不思議な構造のらせん階段。

設計は安藤忠雄。コンクリート打ちっぱなしにエッヂの鋭いコンクリートの柱。
独特の美術館ですが、私は前の平野政吉美術館がすきだったなあ…。


「秋田の行事」も、平野政吉美術館のややく暗い館内のほうがよかった気がする。



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小坂鉱山事務所に入ったのは閉館30分前だったので、ガイドさんをお願いするにはちょっとなあ、

と思っていたんですが、途中からさっとガイドさんが寄っていらして、
無料でガイドをしてもらってしまった…雨だったからサービスだったのかな?
とにかく情報量半端ないガイドさんで、

きっとこの小坂鉱山事務所がすきでいろいろ調べるのが楽しくて、詳しくなったんじゃないかなあ。

このらせん階段、私もすごいすごいすごい!と夢中になってしまったんですが、
ほかは秋田杉で作られているこの事務所、ここだけがヒノキをつかっているそうです。
どうやってこんな曲線をつくったんだろう…

なお、事務所の床に使われている釘はすべて銅!

鉱山事務所設計者ですが、北湯口勇太郎(1861-1931)だったのではないかと
言われています。



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こちらは公式ガイドブックの写真。私が撮ったらせん階段といろいろ違いますね(笑)。

全体に西洋風建築の小坂鉱山事務所ですが、天井だけは
寺社仏閣などにつかわれている格子天井だったそうです。

この写真には格子天井が写っていますね。

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小坂鉱山事務所の近代化に大きく貢献するとともに、
小坂の村にクリスマスなどのヨーロッパの文化をもたらした、

クルト・ネットー(1847-1909)。

明治6年、官営小坂鉱山にお雇い外国人として招かれ、
新精錬法の研究に励み、ドイツ式尾精錬法を採用、

明治8年に機材とともに来日した技師ハクマイルの助力を得て、
翌年マンスフェルト式溶鉱炉を完成。

そして明治10年(1877年)に東京大学教授となり、小坂で同居していた
南部藩家老筋新渡戸家の長女ユミ(1857-1946)とともに上京。


仕事の傍ら狩野派の画家に日本画を学び、「省臺」の画号を許される。

えっ!

お雇い外国人で日本画の絵師に習うってあれ?どこかで聞いた気が。



ジョサイア・コンドル(1852-1920) はイギリスのロンドン出身の建築家。

お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけた。
また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。

のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。
河鍋暁斎に師事して日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。

たまたまなのか…。


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クルト・ネットーの描いたクリスマス風景。


明治初めの小阪の鉱山町がどんなにハイカラで、豊かだったのか。


いっぽう、クルト・ネットーは明治19年(1886)、ドイツに帰国し、

ユミや子どもたちは伴わなかった。えっ!


その後明治31年(1898年)51歳でようやくエミリィという女性と結婚し、

二男一女をもうけたが、明治42年(1909)、心臓病のため61歳で亡くなった。



もちろん私がこれに重ねるのは鷗外森林太郎ですよ。


森鴎外(1862-1922 )。ドイツ留学は1882年~87年、

「舞姫」のモデルとされる、エリスが横浜にやってくるのは1888年。


鷗外の最初の結婚は1898年(長男於菟が生まれてすぐに離婚)、志げとの再婚が1902年。


ネットーが日本にいたのは13年、鷗外がドイツに留学していたのは5年間。

ネットー61歳、鷗外60歳で死亡。

似ているような、ちがうような、ドイツと日本、妻と妻と呼べない恋人の存在、

いろいろ比べて興味深いのですが、


小坂鉱山事務所に行かなかったら、まったく知らないままだった人たちなんだよなあ。。。


運転も得意じゃないし、方向音痴だし(ナビとアプリがなかったらどうなることか…)、

おろおろしながらあちこち出歩いている11月ですが、


疲れたなーと思っても、やっぱり、外に出ないと出会えないものや、引っ張り出せない自分の

気持ちというものがあるので、


小坂町に行ってよかったと思っているのでした。


盛岡から1時間ほどなので、思えば実家のあった(過去完了形)まちに行くのと変わりないじゃないですか。



ではでは♪