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岩手県立美術館の美術館ボランティアに入ったばかりの頃、

解説の勉強をはじめるにあたって、松本竣介の青い画面がいいな~と
思って、当初は松本希望だったんです。が、その当時松本竣介は生誕100年の
全国ツアーに旅立たれたところでありまして。

萬さんからスタートしたんでした。


はじめてみれば萬鉄五郎はおもしろかった。41歳という短い生涯に
油彩あり水彩あり、水墨あり、キュビスム、未来派、表現主義、フォービスム、
と当時西洋で次々変わっていった潮流を2,3年で一気に通り抜けて、
ほかの誰も描けないような絵を描いている。

萬鉄五郎の解説をやろうと思うまでは私は日本近代絵画がどーも苦手でした。

西洋のマネじゃん、いっこも新しくないじゃん、おもしろくないじゃん、と思っていたので、
美術展もそこはスルーできてそれはそれで便利だった。いまはどの絵も気になるので、
たいした疲れる。

その萬鉄五郎と1歳しか違わない、藤田嗣治。

出身は東京ですが、お隣の秋田県には藤田嗣治の支援者であった平野政吉のために
描かれた「秋田の行事」を中心とした藤田嗣治コレクションが充実しております。

最近いいなーと思うようになった画家たちが、示し合わせたように藤田嗣治の影響を受けていたり、
親交があったりすることに気付きました。


松本竣介がいいなーと最近また思いはじめていて、解説をいつかやりたいなーと
ガイドブック的な本から読みはじめたのですが、

松本竣介はおなじ盛岡出身であり、親しかった澤田哲郎から熱心に藤田の技法を知ろうとしたそうです。


そう言われてみれば、あの細い黒い線は藤田っぽいなあと思ったり。


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猪熊弦一郎もわりあい最近、いいなあ~と思っている画家なのですが、

1902年生まれの猪熊弦一郎はフランスのレゼジーで40日ほど、
藤田嗣治夫妻と寝食を共にしたことがあり、

あの乳白色の下地をどうやってつくるのか見届けようとしたけれど、

ついに下塗りのテクニックをみせなかったと書いています。


藤田嗣治も澤田哲郎、中村研一など年下の画家たちに親切で、親しくつきあっていて、


うーん、わが萬鉄五郎にはそういう話はないのかなーと思ってしまうのだった。


まあそれはおいといて、

藤田嗣治は大変器用な上に凝り性だったので、額も自分でいろいろ細工していて、
撮影可の美術館では額縁も撮影する私だった。


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「5人の女」

藤田さんは布フェチだなーといつも思う。
最近読んだ藤田嗣治についての本で、レースの表現に熱中すると
画面全体のバランスがなおざりになる、というようなことが書いてあり、

ひそかにそれは感じていたので、やっぱり!と思ったけれど、

藤田嗣治の絵の中の布の質感や柄や色や、そこに注がれる眼差しが
すきなので、それはいいじゃないの、と思う。

女より布が描きたかったのよこれも(笑)。

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この額は藤田嗣治作。


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「藤田さんは実に器用だった。パリではミシンをかけて着物も縫うし、
額縁なども自分でさっさと作った。それは世界のどこにも見当たらないような
藤田さん独特のものだった。」(「私の履歴書」猪熊弦一郎)

猪熊弦一郎の「私の履歴書」を読んで、


猪熊弦一郎と東京美術学校で同級生だった面々のなかに岡田謙三という名前をみつけて、あらっ!と思ったのは今年の夏でした。

岡田謙三!秋田市立千秋美術館に岡田謙三室があるじゃ!と。

その岡田謙三室もそういう流れがあって、先週秋田に出かけたときは、
ここも見なくては、と肩に力を入れたんでした。

最初のほうの絵は、さすが、東京美術学校ではじめて留学画学生になった男だけあるじゃ、
とは思うけれど、ズキズキするようなものはない。

フランス留学中にパリで藤田嗣治にも会っているし、戦後もなにか交流があったようだった。

1902年生まれの岡田謙三、猪熊弦一郎、1912年生まれの松本竣介、中村研一、
1917年生まれの澤田哲郎、

みんな藤田さんがすきだったんだなーと思う。

藤田嗣治の影響は何年代生まれの画家まであるんだろう。


松本竣介の絵についてだけ勉強すればいいものを脱線しまくるので全然進まないのだった。
でもこれが人生だ。