きのうは「鷗外の怪談」関連で、永井愛さんのトークショーに行ってきました。


会場は盛岡公演の盛岡劇場、のミニホールで、人数制限80人だったかな。文学や演劇に熱心な市民(他県から来た方もいたもよう)が集まった印象でした。中年~高齢の方が多かった。私も中年ですが。


聞き手が石川啄木記念館館長・森義真さんで、やっぱり石川啄木の話を書いてほしい、というのが聴いていて非常におもしろかった。


また、永井愛さんも、この「鷗外の怪談」を書くのに石川啄木がいろいろ書き残していてくれて、本当に助かった、


と啄木のジャーナリスティックな一面を紹介してくださったので、


啄木といえば借金大魔王のイメージで、私の中では野口英世とダブっていたくらいでしたが、


永井愛さんが、


24歳の短い一生をずっと貧乏に追われて、一瞬でも美味しいものが食べられて、浅草で遊べてよかったね、と思いますよ、というのに笑いながら、なにかしみじみしてしまった。


啄木は大逆事件(これが「鷗外の怪談」の肝。怪談に会談、そして階段(いつも観潮楼2階の書斎で密談するから)もかけてあるようなタイトルである)について、


新聞社で校正の仕事をしながら記者たちの会話、バスで聞いた一高生たちの会話などを書き、新聞に載った記事を全部手書きで書き写しているそうで、


これが非常に役立ったと。




明治の文学者に大逆事件が転換期だったという言葉が残りました。


明治の大逆事件を「鷗外の怪談」で、大正の大杉栄事件を平田オリザの「眠りながら走れ」で学ぶ私(笑)。「眠りながら走れ」は事件の直前の穏やかな(でも憲兵は見張っている)日々なんですが、


その大杉栄が大逆事件(幸徳秋水事件)の時は別件で刑務所にいたため、取り調べは受けたが、処刑は免れたと。


明治43年の秋から大正12年9月まで、13年離れていますが、


そして幸徳秋水たちが処刑された明治44年1月24日から100年以上経っていますが、



調べる前は100年前って大昔に感じていたけど、その子孫の方が舞台を見に来てくださって、


というお話と、

(志げの実家の方の親戚の女性が志げそっくりのはっきりした目の美貌だったり、平出修の子孫の方もやっぱり小柄だったり)



時代の閉塞状況は明治と変わらない、ということも印象に残っています。


エミール・ゾラとドレフュス事件(1898年)と日本の言論界(というのか文学者)がまったく腰抜けで誰もお上にたてつかず、


白樺派の武者小路実篤や志賀直哉が事件をまったく気に留めてもいなかったことなど、


日本を覆うこの風潮(正義を主張する人が出ても、誰も後に続かない。ものいえば唇寒し的な)、という、でもその中にいる自分たちであるという自戒のこもった言葉も忘れられない。