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芸術新潮1995 10月号の「アメリカン・ドリームに賭けた日本人画家たち」

を読み返していたら、


あらっ?




「幸徳秋水の甥の浮草人生 幸徳死影」

というタイトルの記事が。



幸徳秋水といえば、大逆事件。

といっても私はその事件について「鷗外の怪談」で

はじめて詳細を知ったようなもので、


舞台を見た後に興味が出て、ネットで検索して、

「大逆事件」をモチーフにした本がずいぶん出ていることも、

そこではじめて知ったような…。


気が弱いので、昔の思想弾圧や拷問や虐殺や特高や憲兵とか隣組とか密告とか、


そういう話を読んでいるとほんとうに心臓が苦しくなってくるんです。

で、まさに幸徳秋水のことが頭に有ったので、まえによんだときはスルーだったと思われる、

幸徳死影の記事に気づいたのではないでしょうか。



死影は1890年生まれですから、年代的に誰に近いかといえば、岸田劉生(1891-1929)でしょうか。


1905年、秋水とともに渡米した幸衛(死影の本名)は、叔父の帰国後もアメリカに残り画家として

活動。


25年頃にはロサンゼルスで賭場を経営していた日本人から学資をもらい、

絵画勉強のためにパリに向かう。そこでスランプに陥り、さらにイタリアに渡るも

アルコール中毒になり、約25年ぶりに帰国したときはもはや廃人同様だった。


その後は酒代として絵をかくようなありさまで肺炎のため43歳で没する。

死影と号するのは秋水の刑死後だった。(「芸術新潮199510月号」より)



死影は15歳で叔父秋水とともに渡米したんですね。そんな子どものような年齢で、と思いますが、明治の若者たちはガッツがあるなあとも思います。さて、叔父秋水はいつ帰国したのでしょう。



幸徳秋水についてWikipediaから。


1905年(明治38年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。
出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。


アメリカに亡命していたロシア人アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。


翌1906年4月18日サンフランシスコ地震を体験。
その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る。


同年6月23日には地震の影響から帰国の途に就き、同年6月28日には帰国歓迎会が開かれた。


1906年サンフランシスコ地震を体験、とありますが、萬鉄五郎が横浜港から西海岸へ渡ったのは

1906年5月17日。萬さんが身を寄せたのはサンフランシスコ対岸のバークレーですが、時期も場所もほとんど重なります。




「サンフランシスコ大地震」


1906年4月18日早朝にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ周辺を襲った、およそマグニチュード7.8と見込まれる大地震


1923年の関東大震災が7.9。奇しくも、という気がします。


1906年に叔父秋水が帰国。16歳の幸衛は単身で画家として活動していくんですね。

考えたら相当なプレッシャーだった気がします。


秋水が大逆事件で処刑されたのは1911年(明治44年)1月24日。


幸衛21歳ですよ。異国にあって後ろ盾であった叔父の処刑を知ったとき、どんな思いであったろうと。

スランプに陥るのはそのもっとあとですが、


アルコールに飲み込まれたというより、大逆事件に飲み込まれたのではないかと思わせられます。