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東京国立近代美術館の常設展に国吉康雄を特集した

7室「国吉康雄 誰かがわたしの何かを破った:」があり、

キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!


と喜んでしまったのは、この「芸術新潮」のバックナンバーをよんでいたから。

萬鉄五郎ネタを日々捜しているので、、ピン!と来て、閉店セールの
美術書専門の古書店で狩ったんですよ。

萬鉄五郎は1885年、いまの花巻市東和町に生まれ、幼少から絵がうまく、
上級学校へ進んで絵を勉強したいという夢はあったのですが、
本家の祖父が萬さんのことも、一つ下の従弟のことも、外に出さなかったのでした。

出さない代わりに当時としては高価だったカメラや自転車を買い与えて
ご機嫌をとってはいたもよう。どこかで聞いたような話なのである。

さて、1995年当時においては、「野茂よ、むしろ野球界の国吉康雄を目指せ!」
とまで言わせしめる国吉康雄は、

1889年岡山県岡山市生まれ。17歳でアメリカ西海岸にわたります。

萬さんも祖父が亡くなってから親族の反対を押し切って、
従弟と上京し、早稲田中学に入り、卒業し、21歳の時に
宗活禅師による北米布教活動にくわわり、
バークレーの米人家庭にボーイとして住み込むのですが、

4月18日のサンフランシスコ大地震の影響による物価高騰があり、
布教活動は失敗し、萬さんもアメリカで美術学校に入る野望は敗れます。
残念!


国吉康雄 17歳 1906年

萬鉄五郎 21歳 1906年


あれっ!!なにこの符号。と思って喜んだのですが、まだこのネタを
うまくつかえそうもないので熟成中です。

国吉康雄はアメリカ西海岸に渡った時に目標としていたのは、

「英語」と「経済的成功」。

働きながら学校に通いますが、そんなにすぐには
英語は上達しないので、絵を描いてコミュニケーションしていたところ、
それに感心した教師に美術学校に通うことを勧められたのが絵の道に
すすむきっかけだった。



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やがてニューヨークへ移った彼は、名門美術学校アート・スチューデンツ・リーグ

に学び、20歳を過ぎるころには個展を開けば一流の新聞・雑誌を展評が

飾る、そんな注目の人になりおおせる。すごいな。



という特集を読んでいたので、国吉康雄のナマの絵に接することができて、

おおよろこびした私なのだった。


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カーニヴァル 1949


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「誰かが私のポスターを破った」 1943年

壁に張られたポスターは国吉の友人である画家、ベン・シャーンが
反ナチスを訴えるために描いたもの。

ポスターの中の大きな手が、今にも女性の後頭部につかみかかりそうです。
タバコを持つ女性自身の右手と、手のようなかたちをした女性の不思議な
帽子が、ポスターの中の手とともに女性の顔を三方から取り囲み、

重苦しい雰囲気を作り出しています。こちらを振り返った女性は、
いったい誰に視線を投げているのでしょうか。怒っているのでしょうか、
それとも哀しいのでしょうか。

戦時下に描かれた国吉の代表作です。(キャプションより)



図書館から借りている、ベン・シャーンの図録にこのポスターが
ないか捜しましたが、なかった。

でもベン・シャーン、最近やたらとあちこちで名前が出てくるのですよ。
いままで全然興味がなかった画家なんですが、時期だったのでしょうか。



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「椅子の上の写真と桃」 1938年

1936年 国吉は反戦を掲げる「アメリカ美術家会議」執行委員になっています。




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「跳びあがろうとする頭のない馬」 1945 大原美術館所蔵


大原美術館には一度だけ行ったことがあるのですが、
「跳び上がろうとする頭のない馬」、見ただろうか。見た気がするんですが、
国吉康雄について、こういう人だ、というのをこっちが持っていなかったから
さーっと見て、日本のシュールリアリズムの絵だな、と思ったんじゃないか。

つくづく無知はもったいない。損だ。

日本の敗戦直前に描かれた絵なのだそうです。
1945年4月の個展で発表された後、10月には
「第56回アメリカ絵画版画年次展」ノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌賞受賞の
栄誉に輝いた。


国吉康雄展、と打って検索したところ、




がヒットしまして。2013年3月20日~6月9日でした。

なにかこう、いろいろつながっていくなあと思った私です。


萬鉄五郎が西海岸の美術学校に入っていたら、
その後彼の運命はどうなっていたんだろう。

萬さんは伯母さんに学費を送金してほしい、と頼んでいたし、
英語も土沢にいたころ家庭教師に習っていたので、

たぶん、英語的にも経済的にもすでにもっていた。

あとは美術だけだった。

その先はわからない。アメリカにわたって美術学校で優秀な成績を収めても、
その後はさっぱりだった画家も多いし、太平洋戦争まで生きていたら(萬さんは昭和2年に他界している)
日系人収容所にやられて強制労働をしいられていたかもしれない。

ただ、知らないよりはなんでも少しでも知っていたほうがいいと思う。
きっとこれもあとでなにかの役に立つのであります。