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鷗外の怪談 二兎舎公演39

作・演出/永井愛

東京芸術劇場シアターウェスト(10/26)

☆キャスト☆
( 年齢)はパンフレットなどにはなかったのですが、私が参考のためにつけたしたものです。

舞台は大逆事件などから、1910年の秋から1911年2月頃までと思われます。

鷗外の末っ子、類が2月11日に生まれているからです。

森鷗外(48) 金田明夫
森しげ(30) 水崎綾女
平出修(32) 内田朝陽
永井荷風(31) 佐藤祐基
スエ(19) 高柳絢子
森峰(64) 大方斐紗子

舞台は鷗外の邸宅、観潮楼の二階の洋間からはじまります。

というか、つねにこの洋間で事件が起こるのでした。物理的な幕はなく、暗転もごく少なかったのですが、

前半は嫁姑のコミカルなバトルや気の強いしげと鷗外の客人、平出や荷風とのやりとり、若くて美しくて気の強い妻に頭が上がらない鷗外、

と、時代モノ、しかも主人公は漱石に比べて読むのに努力がいる(失礼)鷗外森林太郎、

と身構えていた気持ちが、気がつけばしげに同情して、峰にもっと言ってやれ!と嗾けたいような気持ちに。

妊娠後期とおぼしい、腹の目立つしげが自分の小説を読み上げながら推敲しているところから舞台ははじまります。

私は高1から森茉莉のファンで、ということは35年もファンだということですよ。同じ頃すきになった作家は二桁をくだらないですが、いまでも読むのは森茉莉と金井美恵子だけになりました。

なんで森茉莉がすきになったかはわからないですが、その森茉莉が書く成分の97%はパッパ(鷗外のこと。ほんとうはパァパとドイツ語風に発音させたかったらしいですが、茉莉がパッパというので、家じゅうがパッパになってしまったもよう)でできている、

というわけで私も鷗外は短い小説(「普請中」とか「かのように」とか「じいさんばあさん」とか学校でやった「舞姫」と関連してやった「雁」、例外的に「渋江抽斎」)くらいしか読んでいないのですが、

茉莉がパッパの翻訳やパッパの文体、パッパの葉巻の匂いやパッパの…とにかくパッパの話とそのパッパが愛したうつくしい二度目の妻しげ(茉莉たちの母)、パッパに溺愛された自分のことばかり、


金太郎飴のように(by田辺聖子)

書くので、私も鷗外を少しは読んだし、鷗外について書かれたものや、鷗外の子どもたちが書いたものは全部と言っていいくらい読んだ。鷗外より鷗外の子どもたちの書いたものの方が少なくて読みやすいからですが。

前妻との間の長男於菟、長女茉莉、百日咳でなくなった二男不律、次女杏奴、三男(末っ子)類の5人のうち、

2歳で亡くなった不律は別として、全員が鷗外について愛された記憶を競って書いている…というのも怖い話ですね、考えてみれば。でも子ども全員が書いた本を積み上げても、父親の残した膨大な仕事に比べたら1/10にもならないかも。恐るべし鷗外。


長男の於菟は劇の中でも影が薄く、しげに疎まれ、峰に(しげの考えによれば嫁であるあたしへのあてつけさ!)溺愛されているのですが、

あ、永井愛、ほんとうにしげをよく知ってるんだ!と思ったのは、前妻の子どもである於菟を女中のスエに、

あんな顔のみっともない、前妻の産んだ子

と言うところですね。思っていても後妻の立場なら言えないことをズバズバ言う、裏表のない、人を傷つけてもてんで平気なしげ。

でも美貌だぞ!演じた水崎綾女さんもきれいだったけど、

写真の中のしげも明治の女性とは思えない目鼻立ちのはっきりした美貌。

その美貌自慢の鷗外の後妻で若いしげと、津和野藩士の娘で苦心惨憺のやりくりで鷗外をここまでにした峰の丁々発止が可笑しい。

鷗外がここまでになったのは、自分がやりくりして高等教育を受けさせ、軍医にさせたからだと思っている峰にしてみれば、

成功してからの鷗外の元にやってきたしげが気に入らないわけだ。自分を立てず、小説を書いたり、当時の女らしさとは逆の言いたいことをはっきり言う、全然謙っていないところが嫁としてなっちゃないと思うんだろうなあ。

茉莉視線では祖母の峰の言葉は真綿に針を含んで優しく、母ばかりが正直すぎて悪く言われて、鷗外の悪妻の評判がたったのだ、

ということなのですが、

しげの言いたい放題はすごいですよ。

舞台のことではないのでなんですが、私が鷗外の子ども達が書いたものから覚えているだけでも、

学校の成績がひどく悪い類に、鷗外の子どもで自分が産んだ唯一の男の子なのに、と思うあまりか、

脳を調べてもらって脳には異常がないとわかって落胆のあまり、

「死んでくれないかなあ、苦しまないで死んでくれないかなあ」

と言ったり(ひどすぎて笑えない)、

杏奴にたいしては、茉莉のフィアンセが杏奴ちゃんに、とくれた布地まで茉莉の着物に仕立ててしまい泣かせるとか、

杏奴はどうやってもたいして変わらないが、茉莉は化粧映えがするからと、長女と次女の扱いに差をつけるとか、


どうしてそこまでひどいことを言ったりやったりできるのか、というレベルである。

独身の頃に「死んでくれないかなあ」を読んだ時には凄すぎて絶句しましたが、

きのう、舞台をみていて峰が於菟を自慢するセリフで、

ああ、自分にとっては忌々しい存在の前妻の産んだ子が東大医学部というパッパの歩いた道を進み、一方で自分に似て美貌ではあるけど(類のことを美貌だとは思っていたらしい。でもしげの美意識はパッパがいちばんいい男だ)、成績が悪い息子に対して苛立つあまり、そう言ってしまったのだろうかとはじめて分かった気がしました。

しげが書いていた小説を読んで峰は、この嫁を虐める姑とは私のこと?とチク。

小説ですよ、それにその姑は出番はもうないですから、としげが言えば、

そのわりにずいぶん印象の強い(たぶん意地悪さの印象が)こと、とあてこする峰。

そこにやってきた平出修は、

弁護士でもあり、小説や詩を発表する文学者でもあり、「スバル」を発行し、鷗外やしげに原稿依頼をしにやってくる編集者でもあります。

内田朝陽さんが外見からして説得力のある平出修を演じていました。

真面目で勉強家で、優しく、正義感があり、器用に立ち回れない。

もう一人、森家に出入りするのが若き日の永井荷風。平出修とは同じくらいの年齢ですが、タイプはまるでちがう。

遊び人の荷風は、芸者との仲をしげにからかわれることも始終だ。

時代は「大逆事件」のころ。

じつは平出は「大逆事件」の弁護士のひとりだった。

鷗外に極秘で思想史について書物を貸してもらったり、レクチャーをうけたりして、自分がなんとか濡れ衣で逮捕された人たちを助けることができないか、奮闘している。

しかし、鷗外の親友、賀古鶴所(かこつるど・かこかくじょ)は山縣有朋に鷗外を引き合わせ、いまの出世の道を照らし出したひとなのだ。親友・賀古鶴所は閣下に逆らうなと鷗外を責め、鷗外は自分の言いたくても言えない言葉を小説に書いて発表するが、「沈黙の塔」について峰も(峰はしげのようにあからさまな文学好きではないが、鷗外の母として新聞 や「スバル」は読んでいる。当時の女性としてはかなり知的だったのではないだろうか)おかみに逆らうなど、と、案じている。


最近入ったばかりの女中のスエが二階の掃除にあがってくると、いつも鷗外と客人が話をしていて、
口止めをされるのだが、

彼女はじつは獄につながれたひとり、大石誠之助の身を案じて森家に入ったらしい。貧しいものたちを無料診療してくれる「どくとる」。そんな大石先生が死刑になるなんて、と。


鷗外に大石先生を救ってほしいと土下座するスエと、賀古と平出に挟まれて苦悩する鷗外。


鷗外が10歳まで育った津和野の村の近くには、キリシタン弾圧の小屋があり、三尺四方の箱に閉じ込められそのまま腐って死んでいった隠れキリシタンの声をお前は覚えているだろう、と峰が迫るところでは、ああ、遠藤周作のキリシタン物で知っている、闇箱ですね、と暗澹とする。

鷗外は弾圧されたキリシタンたちの悲鳴など覚えていない、と平出にはおとぼけの口調で交わしたが、

峰の言い方はまるで、


おかみに逆らったらどうなるかの見せしめを、おまえに見せてやったのに、とでも言うようだ。

鷗外が山縣有朋に直訴して大逆事件の判決(24名逮捕死刑の判決をすぐに恩赦がでて12名は無期懲役になた、そのすぐに恩赦がでるあたりも完全に司法が政治の傀儡であるのがまるわかりである)を改めてもらおう、

と、

外に出ようとするのを止めに入る峰は武士の娘らしく、さきほどまでの高熱をおして薙刀をふりまわして、

行くならこの母を殺してその屍を越えていけ!と思わず吹き出すほどの時代錯誤で迫る。



しかし、結局鷗外は直訴せず(歴史が変わってしまうし)、

死刑囚12名は処せられたのだった。

執行のあと、類が生まれ、平出や荷風、賀古らがお祝いにやってくる。

荷風は事件後、戯作者として生きていくことを決意し、やつした姿に三味線を抱えてやってきて、私たちがなんとなく、芸者と浅草と吝嗇とかつ丼というエピソードでもって知っている荷風への道に傾斜している。

平出は鷗外に処刑された人々からの感謝の手紙について話し、自分は小説で言いたいことを書くと伝える。

類のお祝で近所のひとたちも手伝ってくれて、盛大なお披露目が1階であったあと、峰は森家の財布をしげに譲り、ふたりは妙にむつまじい会話を交わしている。


鷗外は吼えるでもなく、苦悩するでもなく、
ただ、

「やっぱりこういう顛末になったよ、おかしいだろ、エリス」

と語る。


ドイツから自分を追って日本にやってきたエリスを横浜まで
送っていったとき、


裏切者(ドイツ語で)

と言われたことがずっと鷗外の心に突き刺さっていて、今度こそは自分の良心を裏切りたくなかったのだが。

こういう顛末とは、幸徳秋水らを救えなかったことなのか、長いものに巻かれてしまった自分のことなのか、周囲の人々のことなのか。日本という国のことなのか。




渡辺えりの「天使猫」をみてわりあい日にちが経っていないので、ふたりの芝居に共通する、ある圧力について考えさせられた。


永井愛のお芝居について、まだ3本しか見ていないけれど、(あっ、DVDを入れて4本だ)
「裏切り」とそれに対して呵責を抱えながら生きている、ということをテーマにしたものが多い気がする。
正義がどちらにあるかは誰にもわからない、ということも。

「歌わせたい男たち」では君が代をめぐって、

「『ら抜き』の殺意」では、正しい日本語をめぐって、

「片づけたい女たち」では、セクハラとパワハラの傍観の罪を、

「鷗外の怪談」では思想弾圧と嫁姑の対立について、

(劇中でしげが、おかみのご威光を笠に着て小説家をいじめる新聞と、家を笠に着て嫁をいじめる姑、とどちらも大きな権力を笠に着ていることを揶揄する)

どちらが正義だったのか、どちらの道を選べばよかったのか、という答えは観客に委ね、
呵責を抱えながら、それでも生きていかなくては、と語りかけている気がする。


岩手県公演にさきがけて、10月31日(金)に、

永井愛さんと石川啄木記念館館長・森義真さんによる

「感激!観劇の極意~お芝居を100倍楽しく観る方法~第2回」
18:30開場 19:00開演
盛岡劇場ミニホール

があり、これは80名限定で、第1回の渡辺えりさんの講演が終わった直後に、
盛岡劇場の受付までダーーーッと走って確保しました(翌日には整理券終了だったので、
走ってよかった)。

今回は明治の文豪についてのお話が中心なので、息子の席はどうしようかなあと
迷いましたが、「鷗外の怪談」おもしろかった、飽きなかった、と言っていたので、

ふたりで聴講に出かけようと思います。

ではでは☆