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「四谷シモン 人形譚」 9月25日 会場は仙台の、

東北生活文化大学でした。

こちらには生活美術学科があり、その卒業制作に関節人形をつくる
生徒もいるそうで、いただいた生活美術学科の卒業制作作品集に載っていた
作品のなかでも、関節人形のものがよかった。


「慎み深さのない人形」について、

「『慎み深さのない人形』というのはどうい意味で…」と司会進行の美術学科の先生が
尋ねると、

「いやあ…意味は特に…」

というお答えでした。おしりがこっち向きになっているのは、

「パクリです、そういう人形があったんです」と。


シモンさん(も変だが、固有名詞としてのよび捨てにするのはできても、そう書くと馴れ馴れしい
感じになって変だ。かといって、シモン先生もなあ)は作品について、

どういう動機でつくったとか、作っているときどう考えていたとか、

そういうことを口にしない。ただ手を動かしていくだけ、そんな感じに見えた。

なにかを説明するときも、手を人形を作っているかのように動かしながら
話されている姿が印象的だった。

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初期の布の人形。

いちばん最初は新聞紙とうどん粉でつくったお面(しゃれこうべの)。

5、6年生からは布にカタでなにかをつめた人形のようなものを作り始めた、というこで、

お話の中に、「天竺木綿」が出てきて、すごく懐かしかった。


じつは私も中学時代、人形をつくったことがあって、やっぱり本には、
「天竺木綿」とか「肌色のジャージー」とか出ていて、そんなものがどこに
行けば売っているかわからないので、祖母のいらなくなった肌着をちょきちょき
切って適当にぬいあわせていました。



人形を作り始めた頃のシモンさんも天竺木綿で人形をつくっていたというのがなんかうれしかったわけです。


その頃手本として読んでいた人形作りの本や、

フランス人形作家の川崎プッペ、日本人形作家、平田郷陽の生き人形のスライドが差し込まれました。



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(こちらも初期のお人形)

きのうのお話は、司会の方から四谷シモンの生まれたところから、

ご両親などのお話があり、小学校時代の人形づくりのきっかけとなったできごと、

などからシモンさんが人形作りの変遷と、十代の関節人形との衝撃的な
出会い、澁澤龍彦、瀧口修造、金子國義、細江英公、横尾忠則、コシノジュンコ、
唐十郎、寺山修司、、、大勢の芸術家や文学者、表現者たちとの日々、

澁澤さんを失って、一年後につくられた、「天使」、

生活の軸としようと思ったという、人形教室「エコール・ド・シモン」…

などについて、スライドを交えながら、語られまして。



最初に、司会の生活美術学科の先生から、


じつは四谷シモン先生は、お母様を先週、100歳で亡くされまして、もうとても来てはいただけないと
思っていたのに行きたいとおっしゃっていただいて、

というお話があり、


「100歳でもやっぱり母は母で、いくつになっても親を亡くすのは…」と、シモンさんもおっしゃっていて、

よく来てくださったなあという思いだけです。


私が四谷シモンさんの本名が兼光だと知ったのは、金井美恵子の「タマや」
(黒と白のブチの猫のタマと、主人公のカメラマンの夏之、ハーフのモデルで男優のアレクサンドル、
「目白4部作」の桃子花子に作家のおばさん、の出てくる、いちばんすきな猫小説)だったなー。

アレクサンドルは夏之のアパートに始終出入りしているんだけど、本名は兼光っていうんだよね、と
誰かにすっぱ抜かれていたのだった。で、「タマや」のあと、たまたま、渡辺兼人が四谷シモンの弟で、
シモンの本名は小林兼光で、というのを知ったのでした。

アレクサンドルは舞台女優としての四谷シモンのイメージで、
カメラマンの夏之は人形作家のシモンのイメージかなあと思っていた。小林夏之という名前も、
シモンの本名の小林と重なるし。てか金井美恵子は十代から四谷シモンと知り合いで、よく遊んでいた仲間だったのだし。

四谷シモンの弟が渡辺兼人だと知ったのも同じ頃ですが、そのもっと前に、
「既視の街」で金井美恵子と組んでいたので、お姉さんが画家の金井久美子・美恵子姉妹と、
四谷シモン・渡辺兼人兄弟、おもしろい組み合わせだなーと思ったです。余談すぎですが。


100歳で亡くなられた四谷シモンさんのお母様のことじゃないかな、と心当たりがある文章を思い出しました。

金井美恵子さんの料理のエッセイで、とにかく面倒なことがきらいででも料理を作らせるとこれが絶品な知人の母親がつくる、鶏のモモ肉に味噌を塗って冷蔵庫でほうっておくだけの料理(笑)。

肉に味噌を塗って、気になるようだったらひっくり返すとかしてもいいかもしれないけれど、とにかくなにもしないで放っておくだけで、これが焼くとものすごくおいしい料理になるそうです。

何回離婚して結婚したかあっけらかんと忘れて、料理が上手くて、笑っている顔が魅了的なそんなお母さんが浮かぶようなエピソードではないでしょうか(あくまで、そうかな~という想像なので、断言はできないのですが)。



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澁澤龍彦が亡くなったのは1987年でした。

澁澤龍彦は59歳、四谷シモンは43歳。


「天使-澁澤龍彦に捧ぐ」はその1年後に発表されました。


小学校の頃両親が離婚して、転校もあって、学校の勉強がつまらなくなり、
4年生からまったく勉強しなくなったシモンさんは、

高校へは行かず、十代から毎年上野松坂屋の人形展に出品し、

当時は知らなかったけれど、あとでまわりから、あの子はなんだ、と注目されていたことを
知った、というエピソードがシモンさんらしくてすてきだ。

意識してこうしよう、ああしよう、ではなくて、自分のすきなことに
とことん没頭している…。

その頃頭の中は人形でいっぱいで、

いろんな人形の本を探してあるき、人形の中には
謎が含まれている…人形ってなんだろう?と考えていた。

そんな生活で体を壊して入院したあと、古本屋で出会ったのが、

澁澤龍彦が雑誌「新婦人」で紹介していた、ハンス・ベルメールの関節人形。

渋沢さんの本を読みはじめ、金子國義やコシノジュンコと知り合うのもこの時期で、
いろんなものが燃えさかっているような青春に突入。

金子國義については、

舞台セットのように絵をセットする天才、と言って、テーブルの上の小物の配置を
自分の気に入るように直している金子國義とあの絵が浮かぶ(笑)。

青森県立美術館の「美少女の美術史」展では、ふたりの作品はおなじ部屋にあったんですよ。





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こちらも、「天使-澁澤龍彦に捧ぐ」。

この頃からまた、少女の人形をつくりはじめるのですが、

ぽっとおっしゃった、


復活したいと思っている。お人形さんならつくれる。

という言葉が深くかなしく、突き刺さるようだった。

それは渋澤さんを喪失したときのことなのだろうけれど、
お母様を亡くされたいまも、やっぱりそんな気持ちがあるかもしれない。


人形ってなんだろう、と考えて、そもそもは埋葬品だった、
芸術作品と考えるより、純度が高まるんじゃないか、という
言葉も感覚的にわかる気がした。

人形は傍らにあって、心が和むものであって、
彫刻とはそこがちがう、というお話もあった。

副葬品、傍らにあるもの、心をなごませる存在…。


それはまるで四谷シモンそのもののような気がした。

「天使」については、


(人は消えて、思いは残る…思いってなんだろう…
天使?)と考えたことを話されたのですが、


いまブログを書いていて思ったのは、

誰かを失って残った思いをカタチにしたものが天使であり、

人形はそのひとに不思議と似るもので、というお話を定理として解けば、


失われた誰かへの思いが天使としての四谷シモンであり、
四谷シモンは天使としての自分を、

愛するひとたちへの副葬品としてつくっているのかなあと。



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1980年、生活の柱としようとはじめられた、人形教室。


金井美恵子の「文章教室」に出てくる、オカッパ頭で芸術論を夢中になって喋る、
昔の女優のルイズ・ブルックス(ルル)にそっくりなユイちゃんも「エコール・ド・シモン」に
通っていたなあ。


私が四谷シモンをテレビではじめて見たのは、日曜美術館の澁澤龍彦特集の時で、
いま図録の年譜で確かめたら1994年のことだった。


澁澤龍子さんが書いた澁澤龍彦のことでおかしかったのは、掃除機がだいきらいで、
片付いていて埃が積もっている感じがすきだったということ。整理整頓はしてあって、埃が静かに舞っているような感じでしょうか。


エリック・サティが流れていて、セピア色に見える書斎に少女の人形がいた。


四谷シモンの声がやわらかくて、祈りのようですてきだった。


そこから20年経って、ほんものの四谷シモンに(さっきからシモンさんではなくなっていたが、もうこれでいいことにする。だってシモンさんなんておかしいもんなあやっぱり)会えて、

質問したり、サインを書いてもらって、言葉を交わすこともできたなんてなあ。


当時の私は別世界の人だと思っていて、録画した「澁澤龍彦の世界」を繰り返し繰り返し見て、
それだけでしあわせだった。

やっぱり、ひとは何があっても生きて生きて生き続けていた方がいいと思う。
こんなことがあった時は、死ななくて済んで神様ありがとう、と思います。