ふー、
ぎりぎりセーフ!でした。
岩手県立美術館で9月6日(土)~10月13日(日)まで
開催される
アーティスト対談1 三沢厚彦氏×舟越桂氏
「木を彫ること、表現すること」
14:00~15:30
岩手県立美術館 ホール
入場整理券は10時からの配布だったのですが、
美術館についたのは11時半ごろでして。
どうしようかなーと迷って、とりあえず、ゆっくり丁寧に本展をみて、
それから決めよう!と。
見終わってから、やっぱり息子はキャラホールで、
ズーラシアンブラスの音楽会を見るというので、送っていくことにして、
整理券ください!と言ったら、あと7,8名で終わりだった。12時半くらいだったかな。
自分の後ろには誰も座っていないという状況は中島みゆきコンサート以来だったけど、
空席がひとつもなくて、こんなに大勢のひとがきてくれたんだ、というのがうれしかったので、
後ろの席というのが全然苦じゃなかった。
いちばん前の席でも、がらーんとした中で聞いたらさみしい気持ちになったと思われる。
おそらく市内の方が多いとは思うのですが、最後に質問で手を挙げた方(どちらも彫刻をやっている若い人だった)が、遠方の方々だったので、それもまたうれしかった。
三沢厚彦氏と舟越桂氏はおなじく木彫をやっているというだけではなく、
おなじ東京芸大美術学部の彫刻科の出身で、三沢さんが学生のころ、
すでに舟越さんは助手をしていらして、それで知り合いだったそうです。
生まれは三沢さんが京都で舟越さんが盛岡、といっても生まれてわりにすぐに
東京に引っ越すのですが。
ふたりの対談は現代に生きている彫刻家同士の対談なのですが、
おふたりともある程度ながく生きていらっしゃるので、
美術について語っている言葉が、ほかのことにも応用できるような、
じつに滋味のある言葉になっていた気がします。
三沢さんは岩手で毘沙門天を見てあるいたことがあるそうです。
私の知っているのは萬鉄五郎記念美術館のある、土沢の成島毘沙門天ですが、
地の女神が毘沙門天を下から支えているという特異な像を、三沢さんは、いい、と
思ったらしい。私はそんなに仏像を見たわけではないから、
けっこうあるパターンなのかな、と思っていたのですが、
やっぱり珍しかったのか。三沢さんは京都出身なので、仏像はよくご覧になっていたと
思われるのですが、仏像ネイティブからみてもあれは特殊なものだったんだーと。
(成島毘沙門天。土地の女神が両手で毘沙門天の足をもちあげております)
いろんな彫刻について、美術についてのお話の中で、
興味深かったものをご紹介します。
時間をかけてものをつくることが合っていると思った。
これは三沢さんが木彫をはじめた理由。
舟越さんは舟越保武という存在がいつも頭の前にぶら下がっていたけれど、
北海道のトラピストから依頼があって、聖母子像を木彫でつくっているときに、
これだ、という手ごたえを感じ、
舟越保武が木彫はやっていないということで楽な気持ちでできたというのもあった、
と。
そしておふたりに共通するのは、
モデルを使って、似させてつくることに興味を感じないということ。
三沢さんは動物図鑑のサイズのテキトーさがおもしろくて、
サイズだけはきっちりあわせて作る、と言いながら、ジャガーのしっぽを伸ばしちゃうと、
1mは長くなるんだけど、と、図鑑のサイズと遊んでいる感じがありますが、
動物園に行ってスケッチしてリアリティを追及、という方向には興味がないそうです。
舟越さんも、
「ぼくもモデルはつかっておりません」。ってスフィンクスにモデルがいたら
こわい…。
インドサイもサイズを動物図鑑で確かめてつくっているそうです。
リアルだなあというより、神獣のような趣を感じる。
舟越さんが三沢さんの作品について感じていることを
話された表現が興味深かった。
「トータルなイメージとして、
毎回白紙で(作品に)向かっていく、
道具を使っていない、歯で齧りついていくようなイメージがある。
毎回、前に覚えたものを捨てて、まっさらになって
作っていくような」
これに対して、三沢さんも、
「どうしたって技術は手についていく。
上手くなっちゃったな、というところがあると習得したものを捨て去って
作りたいと思っているイメージに向かって気と向かい合っていきたい」
と。
彫刻について、
三沢さん「彫刻の力とはものをとりまく力。その空間全体の空気が
変わるというか」
舟越さん「空気圧と空間に負けないような形態を作っていかなくては
ならないと。
再現すればよいのではなく、空間を制圧する力が彫刻にはほしい」
また、自分の中で消化できていないのですが、
「ひとつの部分を彫る。空間それ自体と全体の共存、切り替わるところの量の変化、
形の粒立ちのよさ。」
と自分がメモした言葉がなにを表しているのか、じーっと考えております。
ライオンのあのふさふさした鬣の表現について、「ひとつのブロックがかたまりとして空気の中で負けないで量として重なっていて」と、
量の不確定なものの扱いをどうするか、というお話だったのですが、
そこでかねてから言葉ではうまく言えないけど、
これ以外にはないだろう、と思っていた舟越桂さんの常設展示室にある、
ある像の頭部の謎がピシッとわかった気がしました。
特異な髪型なんですが、それによって、頭部の量の表現が際立つというか、それ以外ないだろうというか。
親しみをもたせながらも、深いところまで潜っていく快感もあって、ほんとうに興味深い対談でした。