きのう出かけたのは、秋田県立近代美術館名誉館長講座めあて
だったのです。


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こちらには、通年で受講できるひと、となっていたので、
どうかなあと思って電話したのが6月だったかな。

でもその日だけの飛び入り受講もOKということだったので、
安心して受講…


をみたら、156人の受講だったそうです。

私は用心深く開場と同時に入ったので、いちばん前の席をゲットだ。
まわりをみると、私のような中年のひとも多いけど、おそらく、70代くらいと
思われるシルバーレディ、シルバージェントルマンが多かったです。

こういう講座に出てくる人は経験上女性が多いので、
やっぱり秋田は勉強好きの県民だなーと納得する私。


最初に、

美術は実際にふれるもの、自分の目で見て、自分の人生に
ひきよせて見るもの、

ということをお聞きしました。

つまり、

画家が25歳で描いた絵だったら、自分の人生で25歳には
なにがあったっけ、と思いだして絵と自分の人生を関連付けたり、

描かれた土地が行ったことのある土地だったら、それを思い出したり、

そんなふうに自分にとっての個人的な体験の呼び水になればいいなあと
思います、と。

自分自身、そんなふうに見てはいたのですが、あらためて言葉にして、

自分に関連付けてみる、

と言われると、眼が覚めるようです。
そうか…関連付けていいんだ。


大原美術館展からピックアップした作品について講義します、
ということで、いただいたプリントには大原美術館と、9人の作家の名前が。


講座のタイトルを「大原美術館コレクション 日本近代洋画の魅力」としていますが、
これはわかりやすくみじかくしたもので、

近代洋画・現代コンテンポラリーアートも含まれていますという説明の後、

日本近代洋画について、

いまここにとりあげる、岸田劉生などは日本洋画第二世代で、
第一世代は黒田清輝や浅井忠、

その前のゼロ世代として高橋由一、
という興味深いお話がありました。

高橋由一、すきなんですよー。あの黒っぽいねっとりした感じの、
異常なリアリティ。

黒田清輝の世代は洋行して、外光派に大いに傾倒してもどってきて、
日本の洋画界をリードというパターンな気がする。高橋由一らの絵を脂派、
(たしかに脂っぽい)、黒田清輝らの絵を紫派(陰影が紫だから)というのですが、

その次の世代が劉生たち。


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岸田劉生(明治24~昭和4 38歳) 「裸婦」(大正2)

岸田劉生といえば、麗子のシリーズが有名ですが、はじめは
こういう絵だったんですね。

日本にもヌードがないわけではなかった。ただし、春画は完全な
ヌードではなく、かならず着物をまとっている、という指摘が。

あっ、そういわれてみれば…。

翻って西洋の裸婦像ですが、16世紀から裸婦像が復活したものの、
女神や抽象的存在としてのヌードであって、

19世紀になり、女性のヌードをそのまま美しく描くようになったと。

で、ここで有名なマネの「草上の昼食」のヌードについて、
あれもまだ神話的なヌードだというご指摘が。えっ。定説を覆すような
この指摘。いままでいろんな本でマネの「草上の昼食」がスキャンダラスだったのは、
女性が神話的存在ではなく、生身の女だったからだ、と読んできたのですが。

ああ、また「読んで」になっているな。自分の目で見て、ほんとうにそうか
確かめないとな。いま新国立美術館にきている「オルセー美術館展」、ある雑誌の
2014年の美術展特集では、「草上の昼食」くるー、という記事があったのですが、
来なかったし(笑)。どうなのかなあ。気になってきた!

第二世代の近代洋画は大正年間に描かれたもので、
大正ロマン、大正デモクラシーの時代でもあり、
この時代は、「感情」と「細密な画風」が流行ったそうです。御舟を例にだされたので、
こくこくこく、であります。速水御舟、畳の目まで表現した「舞妓」は悪描写と言われたらしいですが、
横浜美術館で見て、だがそこがいい、とやっぱりふつーに思いました。大正という時代のくくりで
考えたことがなかったので、なぜ大正時代は「細密な画風」が流行したのだろう、と思ったのですが、

もしかしたら、電燈の普及でものがよく見えるようになったから、

というのはどうでしょう(笑)。理想主義やおしつけの価値観を捨てて、
自分の目で現実をしっかりみつめて描く、ということかなあ。

劉生はデューラーの影響でリアリスティックな表現へ移っていきますが、
この裸婦像は興味がつきないです。

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萬鉄五郎(明治18~昭和2 42歳) 「雲のある自画像」 (大正1)

大正1というのは1912年です。この1912年に萬鉄五郎は東京美術学校を
卒業し、卒業制作に「裸体美人」を提出しています。また自画像の傑作を次々に
描いているのもこの時期です。

岩手県立美術館にある「雲のある自画像」は表現主義的な、ムンク的な絵で、
黒い背景に白いシャツを着た男がうなだれており、上にはピンクの雲がぽっかり浮かんでいます。

で、おなじタイトルでおなじ年に制作されたこちらの絵では、

ピンクの雲に加えて緑の雲…。なんでだろう~と思っていたんですが、


河野名誉館長のお考えは、「中国古代の4色」である、

「紺丹緑紫」の絵ではないかということで、

雲の緑と赤、髪が紫、背景が紺(青)。

そっちか!と。

萬の晩年の文人画研究、ことに谷文晁の研究を熱心にやっていたことにも
ふれられたのですが、谷文晁展も河野名誉館長がかかわっていたもよう。
それは知らなかったですが、サントリー美術館の最終日に行きましたとも。

萬さんの谷文晁の論文は理解できていませんが、谷文晁はすきだ。

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そして本展でピックアップしたいのはこちら、というのが、
関根正二(明治32~大正8 20歳)「信仰の悲しみ」(大正7)

ということは19歳でこの絵を描いたということですよ。
国の重要文化財に指定されております。


この絵に関連して、テクニックはうまくなれば失われるものがある、という
言葉が印象に残りました。私がみても、下手なのかな?と思ってしまうような
絵ですが、しかし、この絵を一目みたら忘れられない。

これもやはり大正ロマンらしく、感覚・感情を重視した画風で、
テクニックとしては下手(やっぱりへただったのか!)、稚拙、プリミティブ。

でも、テクニックがある絵が必ずしも心を打つとは限らない。

私は反射的に萬さんの絵を連想するのですが。萬さんももともと絵が抜群にうまいわけですよ。うまいひとがテクニックを脱ぎ捨てて到達する境地が下手だと思われる絵だとはどういうことか。猪熊源一郎の絵も、若いころの絵をみると、というより、小学校ですでに先生の代わりに絵の指導を行っていたというおそろしい早熟ぶりだけど、そこからあの境地に達するのはどんななんだろうと。

根っから下手な私なんか、なにを描いてもすでに完璧なキュビスムで、ナビ派だ。奥行きが出そうにも出せない。消失点がいくつもあり、視点がバラバラである。しかし、ほんとうに下手で下手なだけの絵と、

下手であり心をうつ絵と、テクニックを捨てて(あるいはテクニックを積み重ねて)下手の境地に達した絵のもつ深さは全然ちがう。

また、

絵をみるとき、できるだけ画家の人生なんか考えずに純粋に絵だけを鑑賞するぞ!と私なんかずっと思っていたのですが(最近はちがうけど)、

画家の一生に心惹かれる精神風土が日本にはあり、それを肯定するというようお話がありました。20歳で夭逝した画家であり、失恋や病苦の中で描かれた絵であると思って絵を見る、それでいいのだと。

おっしゃった言葉とはちがうかもしれないけれど、あー、それでいいんだ、と思ったら気が楽に…。そういう見方をしてきてはいたのですが、どこか、間違った見方なのではないか、と思っていた気がします。

絵の解釈に正解はない、と思っていても、どこか、はずしたくない気持ちがあったかも。

もしこの絵にタイトルをつけるなら、「生命の儚さ、悲しみ」といタイトルをつけたい、と。


それを聴いて、私だったらなんてつけるかなあと思ったけれど、そんなにすぐには自由になれないのだった(笑)。

ただ、きょうはこの絵をじーっと眺めていたので、その間に、
紅い服の女の人のすぐ後ろの、ひとりだけ正面をみている(でも下半身は横向き)の
女の人が気になってしまったのでした。

ほかの女性たちが花を持っているのに、赤い服の女性だけがひとり、
黄色い果実を持っているとの指摘もありましたが、


なんとなく日本書紀の「時じくの香の実」、橘ではないのかなあと。


垂仁天皇が田道間守(タヂマモリ)を常世の国に遣わして持ち帰らせた、時じくの香の実は不老不死の果実で、橘ではないかと。


ひとりだけ不老不死の実を心ならずも手にした女性が、
これからの孤独な永遠を思って悲しんでいる、後ろに立っている
正面向きの女性は神か神の巫女かなあと思っているのですが、

すこしは自由に解釈できたでしょうか。

(つづく)


では、秋田県立近代美術館のライバル(なのか?)、わが岩手県立美術館に
行ってきます。車で15分だ!