{1A8A2126-9248-4C3B-AF90-F816CDC1B6E2:01}

美術の楽しみ講座2014 「失われたものを求めて 第1回」岩手県立美術館(8/23)

14:00~15:00



講演に先立ち、講師の大野学芸普及課長から、

平成20年からはじめた「美の楽しみ講座」も、参加してくださるみなさんのおかげで7年目になりました、


という言葉があり、


美術の楽しみを共有、という言葉が耳に残りました。


いままでは収蔵以外の作家を取り上げてきたけれど、

今年度は今回の増田常徳と、次回は「舟越保武展」の余韻を

ひきずりつつ参加してほしい、と、


12月7日(土)の 第2回「彫刻家・舟越保武 -その視線の向こうに」

の告知などありまして、増田常徳さんの経歴などから。


1948年、長崎県五島列島生まれ。

美術学校にも入らず、美術団体にも属さず、個展中心に活動し、

大きな展覧会に出品して数々の受賞をしている、

というアウトラインの紹介があったあと、

独学で画家の道を歩みだすまでのことと、五島列島生まれという背景について

解説とともに、

多数のスライドで絵を紹介しながらの講座でした。

{CCDDF23C-D11C-427F-AEF4-330FB76A3590:01}

講師の大野さんがはじめて増田常徳の絵と出会ったのは、

2012年9月、紀伊国屋書店画廊での個展がきっかけだったそうです。

その個展会場でみたのがこちらの絵です。

私が連想したのは、「いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1)」 (モーニング KC)

でした。しかし、大野さんがつぎに出したスライドで、この労働者と思われる人たちの

足首のぶらんとした理由が腑に落ちました。


image

長崎市西坂の日本二十六聖人記念碑のうち、

4聖人の像が岩手県立美術館にあります。

足がぶらんと下がっていることに気づくと、にわかに恐ろしくなります。

中央の作業員の胸元のクロスは、十字架を意味しているのでしょうか。

増田常徳さんが育った五島列島の歴史は不条理の歴史でもあり、

また五島列島の先には原爆を落とされた長崎があり、戦時中も、戦後も不条理に

遭い続けている沖縄があり、韓国の済州島があります。

常徳さんが長年の夢を叶えて留学した先のドイツはナチスによる、

ユダヤ人大量殺戮の歴史があります。

そういう闇を主題としながらも、そこに「闇に煌めく少しばかりの美」を

求めて描く、描こうとし続けている画家なのかなあと思います。

この「闇に煌めく少しばかりの美」とは、増田常徳さんの本の中にある言葉だそうです。

美とはなにか。

打ち捨てられそうになっている悲惨な歴史や人を拾ってあるく、画家の心。

またはあまりに惨たらしい光景から眼を背けないでいようと思う、画家と見る人の心に宿るなにか。

家業のために美大進学をあきらめた増田常徳さんに、つぎは

稼業の建築会社の倒産が重くのしかかります。

借金を返すために、六甲トンネルの掘削の仕事につきます。

新横浜から新神戸までの短い時間で通り過ぎるトンネルの工事で、

54人の犠牲者が出ており、そのことも作品の闇を濃くしたことのひとつではなかったでしょうか。

「坑夫」「無呼吸層」が当時彼がなにを思っていたのか、どんな体験をしたのかを

感じさせられます。

その神戸の坑夫時代、休みの日には元町で自分が描いた

油絵を並べて売っていたそうです。

そこで声をかけてくれたのが、小磯良平で、

「芸大へ行きなさい」と励ましてくれたそうです。

小磯良平の代表作、「斉唱」のスライドがあり、

もう少しあとになってですが、小磯良平ばりの「黒を装う」と「黒い脱衣」

という女性を描いた作品のスライドもありました。

独学でこんなに自在に画材をつかいこなして、自分の世界を

つくってしまうものなのか、という驚きと、才能はどんな場にあっても

開く時を待っているんだなあと増田常徳のことを知れば知るほど、

応援したくなります。

その後、26歳で結婚。奥さんが幸い、学校の先生で公務員ですから、

その収入で絵を描くことができるようになったそうです。とはいえ、ものすごく

余裕がある生活というわけではなく、

ボーナス時に画材の借金をまとめて払っていたとか。

この時期は路上生活者をモデルにした絵を描いていたそうです。

で、小磯良平とともに、若き日の増田常徳に影響を与えたのが、

鴨居玲。

えっ…。

私は田辺聖子がずっとすきだったので、エッセイに鴨居羊子の話がたびたび出たり、

文春文庫のカバーが鴨居羊子だったこともあったりしたので、

「驢馬に乗って私は下着を売りに行きたい」を読んだり、さらにその弟さんの鴨居玲さんの

図録も図書館で読んだりしていました。

ので。

ここで出てきましたか鴨居玲。と驚いたのですが、

さらに驚いたのは、私がイメージしていた鴨居玲の絵はバタ臭い感じでしたが、

「教会」という、増田常徳と重なる作品のスライドがあって、腑に落ちました。

このころ皿洗いのアルバイトもしていて、そこでドイツのハンブルクから来た人に、

(アルバイト仲間か?)ドイツはいいよ、ドイツへ行きなさいと言われ、

北方ドイツへ行きたいと思うように。

デューラーなど、北方ドイツの絵の勉強もしていたそうです。

その夢がかなったのは30年ほどあとの57歳になっていたとき。

政府の留学制度でドイツへいくことができたのでした。

講座を聴いていて思ったのは、常徳さんは苦労も人一倍なさっているけれど、

苦労しても人を信じる心を失わなかったんだなあということ。

小磯良平に「美大へ行きなさい」と言われて、上京して芸大を受験したものの落ちて、

それでも画家への夢をあきらめず、展覧会に出品しつづけます。

また、レストランのアルバイト時代に、ドイツはいいよ、と言われて

(もちろん相手は常徳さんが絵を描いていることを知っている)

ほんとうにその通りにドイツへ行ってしまうあたりも、

心がまっすぐなんだろうなあと。

講座のあと、なにか質問がありましたら、というので、

神戸時代の水木しげるが小学校の教室で日曜日に行われていた小磯良平の

画塾に通っていたことがあるので、

常徳さんもそういう塾で小磯良平に指導を受けたことがあるのでしょうか、と

聴いたのですが、

それより、

常徳さんのこの心のまっすぐさが「闇に煌めく少しばかりの美」ですよね?と

もっとストレートにぶつかるべきであった。反省(笑)。

常徳さんの作品のスライドはほんとうに一枚一枚見ごたえがあって、

特に、増田さんの作品の中でもすぐれてよい絵だと思う、と紹介された、

「黒海」(1998)や、

{A5BE8D99-FDC2-4CCE-A75A-81A0B1559207:01}

3mを越す大作、「もうひとつの最後の晩餐」(1999年)

「子宮に見えて仕方がない」という、ツインタワーを描いた、

「唯物と唯心のねじれ」(2003年)

(私はそれがどうしてもビルに水木しげるが描く、文明社会をあざ笑うごとき

妖怪がとりついた図に見えて仕方がない)

絵の上に麻布を張り付けて、眼を隠された人が、

口も針と糸で縫い閉じられている、

「苦渋の食卓」(2006年)

アウシュビッツの囚人たちが無残なまでに箱に詰め込まれている、

「黒い森」

(私は江戸時代の拷問、三尺四方の箱に閉じ込めるという闇箱を連想する)

胸を掻き毟るような少年の横たわった姿の

「痙攣」

拷問で苦しんで死んだ姿のように思える。。。

ここで、大野さんがおっしゃった言葉で、

視覚芸術は過去のものをイメージさせる、

言葉で書いても書きつくせないことを絵は一目で伝える、

というような言葉があります。

そしてこれは大野さんの言葉なのか、自分のメモなのか、

謎ですが、

碑としての造形芸術。

という言葉もメモに残っています。

{9B0B7704-0713-472F-92A4-AE5954951520:01}

{71184B5E-E5D2-4529-8C6B-CD4967D5E113:01}


現在岩手県立美術館の常設展示室にあるこの二点のうち、

素描の一枚は栃木のアトリエを訪れた大野さんがこの絵をほめたところ、
気易くもらってしまった一枚だそうです。

栃木のアトリエは冷暖房をつけず、酷寒と酷暑の中で描き続けられているそうです。

アトリエには黒く塗られた大きな画面があって、黒色で地塗りされたあとに、
その黒もフラットな黒ではなく、なにかもやもやとうかび上がってくるようなところに、
光を足していく…。


1時間の講座でしたが、濃く、深い内容で、この画家についてもっと知りたくなり、
もし今度増田常徳展があったら、見に行きたいなあと思っています。