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水族館のユニークさはいろいろありますが、

この秋田蘭画描法によるイラストに彩られたパネルが何とも言えません。


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文章も詩があって読ませるし、縦長のフレームの支持体はもちろん、秋田杉でしょう。

なにからなにまで秋田尽くし!


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狼林<ROURIN>
1957年東京都、三鷹市に生まれる。
20歳よりフリーランス活動を開始、ワイルドライフアートとも呼ばれる自然生物画を写実的に描き続け、各種図鑑画や水族館・動物園の博物標本画・生態画なども手がける。大分マリンパレス水族館魚類画、御母衣ダム電力館植物画、青森県立郷土館野鳥画、上野動物園動物画をはじめ、横浜八景島シーパラダイス水族館海洋生物画約600種の原画制作などがある。2004年、秋田県立男鹿水族館秋田蘭画描法による自然生物画を連作した他、2011年沼津港深海水族館にシーラカンス博物画を、2012年京都水族館にペンギン図その他を制作する。一貫してフィールド体験を重視した取材主義を活動の指針としてきた。また、人と天然イワナとの共生を目指し、人為的絶滅沢の発見と土地イワナ移殖放流事業とを25年以上にわたり続けている。
日本理科美術協会会員(http://www.rikabi.jp/member/member_21/)
ジオアートワークスメンバー
在来型天然岩魚を愛する「岩呼狼会(がんころうかい)」事務局長

秋田蘭画と水族館の組み合わせを考えた人は誰なんでしょうか。いいですね、すごく合っています。


秋田蘭画(あきたらんが)は、江戸時代における絵画のジャンルのひとつで、久保田藩(秋田藩)主や藩士を担い手とした、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画である。秋田派ともいう。安永年間(1772年1781年)に久保田藩で成立したが、後継者もなく天明年間(1781年-1789年)には廃れた。しかし、その極端な遠近法は後代の浮世絵にも大きな影響を与えたとされる。代表的な画家に、藩士小田野直武1750年 - 1780年)、藩主佐竹曙山1748年 - 1785年)、その一族佐竹義躬1749年 - 1800年

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小田野直武「東叡山不忍池」(1770年代)秋田県立近代美術館所蔵

秋田県立近代美術館と秋田市立千秋美術館には、秋田蘭画の所蔵品があって、

常設や常設企画展などで会うことができます。

まあね、またマンガか!と言われそうですが、



久保田藩は財政再建のための方策として鉱山開発に着目しており、安永2年(1773年)7月、源内を鉱山技術者として藩に招聘した。言い伝えでは、源内が阿仁に向かうため角館城下の酒造業者五井家に泊まった際、宿の屏風絵に感心した源内がその絵の作者だという直武を呼び、「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせたところ、二重丸を描いた直武に「それではお盆なのか餅なのか分からない」と言い、即座に陰影法を教えたという。このとき直武は24歳、それに対し源内は満45歳であった。


このエピソードがどうしたって、

よしながふみの男装した平賀源内(男女逆転大奥ですから)の絵になっちゃうわけですよ。

「ベルサイユのばら」でフランス革命を覚えた子どもは成長して「大奥」で江戸時代を勉強するのであった。

もちろん、土用の丑の日には平賀源内のことを思い出す~よしながふみの「大奥」にもありましたし。