大原美術館展 


会場 秋田県立近代美術館 5階展示室

会期 2014年7月19日(土)~9月15日(月) 

開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)


あー、やっとⅠ章に辿りつきました。


4章からはじまって1章にいたる、

鴻池朋子さん方式を採択しようと思ったわけではなくて、Ⅰ章からⅢ章は

正順で書こうと思います。

大原美術館を孫三郎とともに作った児島虎次郎の絵と、彼がはじめて日本に持ち帰った絵である、

アマン=ジャン「髪」、



昭和5年に大原美術館が開館される以前に、虎次郎と孫三郎によって収集された作品が展示されています。



いわば大原美術館創世記。


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1 児島虎次郎「自画像」1922年頃 58.2×46.0


1881(明治14)年、岡山県川上郡下原村(現高梁市成羽街下原)に

次男として生まれる。成果は「橋本屋」という旅館で繁盛していたという。


5歳で父がコレラで死亡。おそらく以後稼業が傾いていったのであろうと思われる。

高等小学校(小学校は6年までだけど、その上が高等小学校2年で、旧制中学には

やれないが小学校よりもうすこし上の学歴をつけさせてやりたい親はこの高等小学校までは

出してやったようだ)卒業後、進学を許されず家業を手伝う。


明治34年、児島の才能を惜しむ従兄と小学校校長の力添えがあって、画家になることを反対していた祖母の許しを得て上京。


ここからがすごい。


明治35年東京美術学校入学。西洋画科入学。担当教官として黒田清輝、藤島武二、長原孝太郎、岡田三郎助など。

そしてここでついに、大原孫三郎との出会いが。


大原家は江戸時代から繰綿・米国問屋を営み、孫三郎の父孝四郎の頃には倉敷屈指の大地主であった。孫三郎と孝四郎をひきあわせたのは、


大原奨学会の東京における審査員であった弁護士。このことだけで大原家どんだけ大富豪なんだ、と驚く。


大原孫三郎が児島虎次郎のパトロンだった、と思ってしまうと、ふたりの年の差も大きくひらいていたかのように勘違いしてしまいますが、


孫三郎、1880年生まれで1歳しかちがいません。ふたりはどちらが上とか下ということはなく、

おなじ志をもつ、同志であったのだと思われます。




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2 児島虎次郎 「里の水車」1906年 87.0×141.0


奨学金を得て、もともとの才能と努力によって、飛び級を2回して、

5年の美術学校を3年で卒業します。すげー。


スペシャルギャラリートークの時に、学芸課長の柳沢さんがおっしゃっていたのですが、

当時の東京美術学校、1・2年、3・4年はカリキュラムが同じだったそうです。

だからたぶん、「きみは1年だけで次に進んでイイネ!」という感じですいすいと

飛び級をしたんじゃないかと。


入学のクラスメートと卒業時のクラスメートがちがうわけだが、


卒業時一緒だった画家に、熊谷守一、青木繁がいます。


卒業後は研究科に籍を置きます。


そしてこの絵は黒田清輝先生の勧めで、東京勧業博覧会の美術部門へ

出品し、同時にもう1点「なさけの庭」を制作。大原孫三郎が強い影響をうけた

石井十次が解説した日本初の孤児院である岡山孤児院に起居して制作したと。


明治40年、「なさけの庭」は西洋画部門で1等賞を受け、宮内省買上となり、

この快挙を喜んだ大原孫三郎は児島にヨーロッパ留学をすすめます。


時に孫三郎27歳、児島虎次郎26歳。



児島虎次郎恐るべし。


体はあまり丈夫じゃなかったみたいで、海外にいくなり腸チフスになって

弱ったりしていますが、


精力的に活動しています。


特に恐ろしいのは海外で美術学校に入って首席で卒業したり、

サロンに出品した絵が入選したりしているところですよ。


明治の志のある青年たちが海外に雄飛するのもすごいと思うが、

みんな外国語があたりまえにできたみたいですね。

虎次郎は美術学校時代、フランス語を暁星中学に2年通って学んでいます。




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こちらがそのサロンに出品して入選した絵。

「和服を着たベルギーの少女」

こちらは大原美術館本館の入り口にあって、

お客様をお出迎えしてくれる箱入り娘ですから今回はお留守番でした。


そのかわりに、

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3 児島虎次郎 「睡れる幼きモデル」1912年 116.2×88.5


この絵は海外で描いたものですが、少女のレースのワンピースの質感や、

ソックスの細かな編地、装飾的な背景のカーテンなど、


題材といい、見ていて楽しい気持ちになれる絵です。


この3枚の絵が会場入り口に並んでいて、

大原美術館展の導入部であると同時に、


大原美術館の歴史のはじまりでもある、そんなコーナーになっています。




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エドモン=フランソワ・アマン=ジャン「髪」1912年頃 72.9×91.5

こちらが虎次郎が持ち帰った第1号の絵です。


自分が絵の勉強をしたいからではなく、

広く日本の芸術界のために、日本のみなさまに素晴らしい海外の絵を

みていただくために、という気持ちで孫三郎に手紙を書いて認められ、


以後、アマン=ジャンとは生涯交際があったといいます。


絵の才能があり、勤勉であり、誠実。


その後も何度も海外へ渡り、画家から直接絵を買って、

のちの大原美術館の礎となるコレクションをつくりあげていきます。



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クロード・モネ「積みわら」 1885年 65.2×81.5





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ジョヴァンニ・セガンティーニ 「アルプスの真昼」 1892年 86.0×80.0



モネの「睡蓮」は「大原美術館」でお留守番ですが、


モネの「積みわら」と並んでいる、セガンティーニの「アルプスの真昼」の


この明るい光の量と、細かなタッチの絵の明るさ、素朴さ、

見ていて気持ちが晴れやかになるような絵です。


セガンティーニは現在のイタリア北部生まれですが、出生当時その地は

オーストリア領であり、イタリアに住み、画家としての

教育もイタリアで受けながらその国籍を取得できませんでした。


児島虎次郎はパリばかりではなく、西欧各地の動きにバランスよく

目配りした収集を行い、その代表的な作品がこちらなのです。


セガンティーニの描法は、印象派からポスト印象派へと洗練された

点描技法を採用し、澄み切った明るい光の中に、


なにげない労働者の日常の一コマを描き出しています。

タッチは細い棒状で、草から羊、遠景のアルプスの風景まで

鮮やかに描き出しています。




ほかにシスレー、シニャックなどのポスト印象派、セリュジェなどのナビ派など、

16点が展示されています。