草間彌生~永遠の永遠の永遠 ~9/7(日)
秋田市立千秋美術館会場、よかったですよ~。
この赤い瓢箪に白の水玉のような作品は、
《新たなる空間への道標》でして、エントランスでもお出迎えしてくれましたが、
美術館の2Fでも待っていました。
と言いつつ、きょうは秋田市立千秋美術館で終わってしまい、秋田県立美術館の展示作品、
巨大彫刻《南瓜》など162点の展示までは回りきれず。
でも8月に日本海メロンマラソン大会でまた立ち寄ることはできるしね。
概論的なものかと思っていたのですが、草間彌生との出会いから、ほかではあまり聞いたことのないエピソードの数々が展開され、
思わず喜んでしまったのが、私は日本の画家の誰からも影響を受けない、ライバルなんかいない、と言っていた草間彌生が、
(それはインタビューだったのでテープを回していたらいきなりガツーンとやられ、ではテープを回さず、雑談の中で聞こう、と場を改めたところ)
ライバルは速水御舟と村上華岳だ。
と言ったそうです。
スライドで草間彌生とは思えない、かなりリアルな玉ねぎの絵が出てきたのですが、
続いて速水御舟の小皿に柘榴や、華やかなクロスに置かれた紅い林檎の絵が。
どちらも初めて見た絵ですが、草間彌生が玉ねぎを描いて、私は御舟に勝った!と言って、建畠さんが、いや勝ってない、と思ったというあたりで頬が緩んでしまいました。
ニューヨークから帰国した当時の草間彌生はニューヨークでやった様々なパフォーマンスから「スキャンダルの女王」だった。
個展を見に行って、これは宗達、光琳以来の天才だ、と慄然とし、以来、まだ20代で名前も知られていない時代の建畠さんでしたが、
なんとかこの天才を世に認めさせよう、とゲリラ的な活動を行います。
当時は国立国際美術館準備室で文化庁所属だったそうですが、とにかく展覧会というと草間さんの作品を入れる、担当していない展覧会にも入れるし、グループ展にも、という状態で、
あまりに、草間は天才だ、天才だ、と言い続けたため、しまいには人から避けられる始末。まさしく草間フリーク状態。
ここで建畠さんは草間彌生を世界に知らしめるために、
1、草間をヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表にしよう!
2、ニューヨーク近代美術館で回顧展を開こう!
と目標を持ちます。そこから5年、10年と時が流れ、
ついに時がきました。建畠さんにヴェネツィア・ビエンナーレのコミッショナーの話が来たのでした。
そしてこのヴェネツィア・ビエンナーレが契機になり、ニューヨーク近代美術館での回顧展も実現。
いろんなエピソードや画家や美術館の名前も出たのですが、
天才は自分のいるべき場所と時を知っている、時代の替わり目に出てくる、
そしてその人が出現したことで絵画が変わる、
といって例にあげたのが、ゴッホ。筆の跡を残すタッチは従来の絵画ではあり得ないものだったのですが、ゴッホが出たことでタッチを残す絵画が当たり前になりました。
つまり、1950年代のニューヨークに現れなかったら草間彌生というアーティストは生まれなかったと。
また天才とは、
1、ケチ
2、家族的感情が希薄
3、試行錯誤がない
と、2001年の横浜トリエンナーレにおける、「ナルシスの海」では、
迷いなく、アシスタントの女性に中国にミラーボール2000個頼んで、と言い、
そのミラーボールを海に放ったところで、見ていた関係者がみな感動を覚えたという。
努力はするけど、逡巡がない、というのが天才というのはわかる気がしました。ゴールまでのショートカットがきれいに見えているんだと思います。
また、天才とは、
神が降りてきたら自分を差し出せる人。自他の同時救済をできるひと、という定義も興味深かったです。

