ヴァロットン展、やたら見るのに時間がかかったなーと思ったら、図録も読み出せば時間を取られる。なんてこった!
ホテルでテレビをつけっぱなしで岡田美術館とシモン展とヴァロットン展の図録を読みつつ、金の麦と人形焼。いろいろ自分でもツッコミどころありありだと思う。でもこれが私ですははは。
図録は色が濃く、この「トルコ風呂」の左端の女性の太ももと風呂の青い水の際のムズムズするような描写を伝えてくれません。
表面張力によって膨らんだ水際の盛り上がりが太ももをむず痒くさせるような描写なんです。
そしてこの題材はもちろん、アングルの「トルコ風呂」の影響が感じられるのですが、
1095年のサロン・ドートンヌにてアングルの回顧展が開催され、ヴァロットンは「トルコ風呂」のに感激し涙し、
この「トルコ風呂」はその翌々年に描かれています。
ヴァロットンに限らないのですが、私がいいな~すきだな~と思う画家はみんなすきな画家の模写を熱心にやる一時期を持っている気がします。
いまは昔ほど好き!!というわけではないのですが、サルヴァドール・ダリがフェルメールを崇敬し、あの黄色と青を引き継いだ絵を描いているのもそうで、
絵に限らないのですが、
尊敬し模倣することを厭わない、そんな存在を持たない人間は、自分自身の中から生まれるものを大きく育てることもできないのではないでしょうか。
って私はいろんな人に憧れ、いいなあ~と思うことばっかりなので、自己弁護のようですが。
左端の後ろ向きの女性がやっているのは背中の垢すりに見えますが、日本手ぬぐいで垢すりをしている彼女にほかの女性が、
ちょっとあなた、それはなに?
と新しいお風呂文化に驚きを隠せない、「テルマエ・ロマエ」の一場面にも見えませんか?
こちらももっと細やかな色味で、太もものあたりの水際がたまりません。
白い布を不思議な形に丸めて下げていますが、これがどうしても、「レダと白鳥」んlアレゴリーに見えちゃうんですよね。
白い布が白鳥(に化けたゼウス)、そう考えると女性の表情もなんとなく納得がいくような気がしません…か?
同じ女性でもこちらは奥行きナッシング系の絵ですね。
赤、緑、女性の肌色、黒髪で連想したのは萬さんの「裸体美人」と黒田清輝の「野辺」ですが、
赤と緑と肌色と黒髪をテーマにした絵を集めて展示したらおもしろいなあ、なんて考えながら見ているから時間がかかるのか。
「平坦な空間表現」のセクションの絵ですが、それも含めて萬さん的だなーと思い、萬さんはナビ派の影響も受けていたのかなーと考えたりしました。
「公園、夕暮れ」という作品でこちらにかけてくるセーラー服の男の子の麦わら帽子のつばが萬さんの絵を彷彿させる。
ちなみに萬鉄五郎1885年生まれ、ヴァロットンは1865年生まれ。黒田清輝先生は1886年生まれですが、
ヴァロットンと黒田先生は接点があったんでしょうか。気になるというほどではないですが、そのうち調べてみます。
おなじ裸婦でもこちらは「神話と戦争」のセクションにあった絵でして、
ヴァロットンの何とも言えないいユーモアがぶくぶく泡立っているような。
アダムとイブが険悪な言い争いをしているようです。星新一の一コママンガコレクションだったか、エッセイの中の紹介文だったかに、
イブに浮気を疑われるアダムの図がありました。肋骨の数を数えて浮気を見抜くんだったかな。
口汚く罵る、という言葉が浮かぶような素晴らしいポージングです。
そしてこちらも図録の色が濃すぎる!
特に駆け下りてくるペルセウスの青が黒っぽいのが残念です。
しかし、なにか意匠があってペルセウスを青、アンドロメダを赤、竜を緑にしたのでしょうか。
画面に対して小さすぎる役者たちと、奥行がない世界が不思議な夢のようです。
これは図録だと全然問題がない、「短刀で刺された男」なんですが、
腰骨の色が会場で見ると、妙にピンクでソーセージをくっつけているのか?というように見えちゃうんですよー。
会場では、ヴァロットンが下敷きにしたホルバインの「死せるキリスト」の小さな参考図版が掲示してあって、そちらを見るとやっぱりソーセージじゃないんだ、とは思うけど、数々の悪意を感じさせるパロディをやってくれたヴァロットンのことだからここでもなにか…と妄想した方が楽しいじゃないですか(笑)。