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テレビのロケのおかげさまで、美術展を5つ見てくることができました。
心から感謝いたします。

いまにはじまったことではないのですが。

はじめて大食い王選手権の地方予選・東京決戦で上京した時、
決勝の食べ物がラーメンだということも知りませんでしたが、

渋谷のBunkamuraでエッシャーの版画展をやっていることは調査済みでした。
負けたら見る余裕もないわけだが、勝ったらあれを見て帰ろうじゃないか、という
気持ちがあればやっぱり勝てるものだ。

その後もフェルメールの「牛乳を注ぐ女」や伊藤若冲の「動植綵絵」や、大食い番組の
おかげでまんまと見ることができました。京都のアサヒビール大山崎山荘も、奈良の松伯美術館も、
ほんとうに全部ロケのおかげであります。

ということで、

水彩画家 大下藤次郎展☆千葉市美術館(5月20日~6月29日)、

5月29日に見てまいりました。

大下藤次郎の名前は、岩手県立美術館で萬鉄五郎室の解説をするための
勉強をしていて知ったのでした。

というか、

それまでの私は明治~大正の日本の洋画というものがあまりすきじゃなくて、
描線がやたらぶっとかったり、印象派チルドレンだったり、

どうもなー、と全然知らないからこその偏見丸出しで、

見るなら洋画じゃ!近代現代より、ルネサンスじゃ!と思っていました。
シュールレアリスムの画家はすきでしたが、その程度。


しかし、萬さんの解説のための勉強をはじめたら、

萬さんについてもですが、その「外堀を埋める」作業がこれがはまってしまって。

萬さんの東京美術学校(いまの藝大の前身)時代の先生、
黒田清輝にしても、じつは全然すきでもなんでもなかった。

でも、印象派-外光派という流れを知ると、その外光派の師・コランに
師事し、さらにシャヴァンヌにも教えを受けに会いにいっている黒田先生にも

俄然興味がわくじゃないですか。

黒田先生研究もコツコツやっておりまして、島根県立美術館でその
コラン先生の絵を見たときは思わず膝を叩きましたね。

シャヴァンヌと黒田清輝のことは、「シャヴァンヌ展」を
Bunkamura ザ・ミュージアムに見に行ってはじめて知りました。

図録が充実の内容でして、島根県立美術館へ巡回中であります。

シャヴァンヌとコラン、夢の共演!ってなことはありませんが、

萬さんの先生の先生について知ったことも、「外堀を埋める作業」のひとつであります。




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そしてこちらはもうひとりの先生、大下藤次郎。


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展示の最後に資料としてガラスケースに入って展示されていた、
「水彩画之栞」。


萬鉄五郎記念美術館でも見たばかりでしたが、

こちらでは森鷗外の題言の実物も展示されていました。

この「水彩画の栞」が発刊されたのは明治34年6月、

岩手県東和郡十二ヶ村(通称土沢)に、高等小学校を出たものの、
祖父の方針で進学を許されずに家で中学講義録などで勉強していた
萬少年(16歳)は、

岩手日報に載っていた広告を見て、これだ!と思ったもよう。


と、解説でたまに話していましたが、その広告ってべつにでーん!と
大きなものじゃなくて、本のタイトルと定価がずらーっと並んでいる、
その中の1冊にすぎないんですよ。

萬さんのアンテナがそちらにいかに強く張られていたかということでしょう。

「或る日新聞に『水彩画の栞』という本の広告があったので早速買って読んでみた。
何んだかその時非常に清新とでもいうようなそそられる様な感じを受けた。
そして自分にも直ぐ水彩画が描ける様な気持になって」


巻末に、作品を送れば批評してもいい、旨が書いてあり、萬さんは早速送り、
その評価も悪くなかったので、暇を見つけては間断なくかきつづけたのでした。

お祖父さんが亡くなってから、萬さんは一緒に育てられた従兄とともに、
上京し、早稲田中学に入学しています。

そしてこの時代に、ヨーロッパから帰ってきた大下藤次郎を訪ねて指導を受けてもいます。



黒田先生にもコランやシャヴァンヌという先生がいましたが、
大下先生の先生は誰だったのか。

すごく意外だったのですが、原田直次郎ですよ。あの濃ゆい絵の。

濃ゆい絵を描く画家を、脂(やに)派と言い、
外光派の影響まるだしの画家を、紫派と呼んでいたそうですが、

爽やかな水彩画の大下藤次郎が、原田直次郎に師事していたというのが
また不思議。

そして萬さんはべつにそうしようと思っていたわけではないのですが、
脂派と紫派のふたりの先生をもったわけです。


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図録からiPhoneで写真を撮ったものなので、湖水の透明感を
お伝えできないのが残念ですが、

鏡のような湖面をごらんになったことがあれば、あれを水彩でやっているのだと
お思いください。

「穂高山の麓」(明治40年)

この雪の残る山の景と、手前の鏡のようなきらきらした透明度の高い湖の空気の違いが、
如実に感じられて、すごく気に入った一枚です。

124点の水彩画やスケッチと資料の展示で、けっして多くはないのに、
一枚一枚じっくり見てしまいまいした。

見ているうちに、なぜだか分からないが、泣きたいような気持になった絵もあります。
(すべて風景画であって、悲しい場面が描かれているわけではない)

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「秋谷の漁村」(明治38年)

モネの積わらっぽいですよね。漁村だから転がっているのは魚籠であろうと
思われるのですが、いや絶対モネを意識しているでしょうこれは。

ちなみに大下藤次郎は明治3(1870)年生まれ、クロード・モネは1840年生まれです。



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赤道直下の水平線に昇る太陽、ではなく、滲む色だけの朝焼け。

「海で最も美しいと思ったのは、豪州へ行ったとき赤道を渡った。その時は船はべつに走るのではなく、
唯、潮流の具合でわずかに動いている。

その時の天と水との美しさ。総ての物の景が海水に映じて、
その美観は今に忘れることが出来ない。」大下藤次郎(「海の色彩」『寫生画の研究』)



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同時代の画家たちがそうであったように大下藤次郎も欧米への留学を
考えており、海軍の遠洋航海の実習に同行することを思いつく。


師である原田直次郎も賛成し、明治31年、つてを頼って、
明治美術会の特派員という資格で練習艦である軍艦「金剛」に乗船することに
なったのだった。

大下藤次郎の先生である原田直次郎もまた海外留学の経験があり、
明治の人ってどうしてこう大胆に留学するんだろうと思うくらいのものである。


風景画はその世界にじっと引き込まれるけれど、この甲板の絵はあかるさと楽しさが
はじける感じでまたすきだ。


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大下藤次郎はその短い生涯(1870-1911)の中でも、

ほんとうに旅から旅をつづけ、風景を水彩に留めたひと。

私は子どもの頃から絵はすきだが、もちろん、才能どころか、
マイナスの才能があるといいたいくらいのものだ。
(体育とともにつねに2ですよ)


図画とおなじくらいすきだったのが、空を見上げることで、
青空よりも雲がすきだった。

いまも雲がすきで、四季の雲や朝夕の雲を眺めるのがすきです。

特に夕焼けの雲の、紫やピンクやオレンジやブルーや灰紫や、様々な
色がまじりあって、次々にを形や色を変えていくようすを眺めているくらい
楽しいことはない。

大下藤次郎も雲を描くのがすきだったらしく、

中央気象台を訪れ、雲の話を聞く、というエピソードが年譜にあります。

ほんとうに大下藤次郎の雲はいい。

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島根県の宍道湖を描いた作品。

自分が訪れたところが絵になっているとやはり見入ってしまいますよね。

猪苗代湖もそうでした。

少し前にやはり千葉市美術館でみた、「川瀬巴水展」になにか
通じるものがあるような気がしました。


萬鉄五郎について勉強しようと思わなかったら、大下藤次郎という画家を
知ることはなかったし、

行きたいなーと思っていても、今回のロケがなかったら来られなかったと思います。
盛岡から千葉まで一回東京に行ってから千葉へ行くので、3時間はかかるので…。

いろんな偶然に恵まれて見ることができた、それは大下藤次郎展に限らないのですが、
感謝を忘れないようにしたいなーと思います。


美術展をひとつ見ると、連して、調べたいことが次々出てきてちょっと追いつかないのですけれども。