開運の湯のあと、美術館に行って、大下藤次郎について調べたりしていました。

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大下藤次郎(1870-1911)の図録はあったのですが、「水彩画之栞」は無くて残念…といっても明治34(1901)年発行ですから。

復刻版が出ているかも~と思っていたのですが。もし美術館に蔵書があれば、解説の時にこれが萬さんの水彩画のお手本でした、という話を実物をみせてできるかなと。

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「大下藤次郎展」図録には、序文を森鷗外(1862-1922)が寄せていて、ふたりはベルリン留学時代から親交を結び、鷗外が大下藤次郎の水のような人柄を愛し、「大下藤次郎年譜」を記したり、大下の自伝である「ぬれぎぬ」という文章をきっかけにして、「ながし」という小品を書いていることなども書かれてあり、

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トーハクにある、森鷗外総長室跡を思い出しました。

鷗外は帝室博物館(トーハク、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長も歴任したのでした。私は森茉莉ファンなので、鷗外については森茉莉経由で読むようになったのですが、

茉莉、杏奴、類のきょうだいたちがみな、絵を習っていたことから、

鷗外も絵心のある人だったのかなあと。

萬さんは本家の祖父に特別に可愛がられた初孫でしたが、反面、上の学校にあげてもらえず、家で中学校の教科書など取り寄せて独習していたのですが、

1901年7月の岩手日報に載った「水彩画之栞」の広告を目にしたことから、

それまでの水墨画から水彩画へ向かい、

やがて、お祖父さんがなくなり、いとことともに東京に出て早稲田中学に通い始めた萬さんは、洋行から帰った大下藤次郎に会いに行っています。

この時の萬さんの気持ちは「まんが道」で満賀と才野が憧れの手塚治虫を訪問した時の気持ちに近いでしょうか。

大下藤次郎は41歳で、萬さんも41歳で夭逝しています。

東京美術学校時代の西洋画科の先生であった黒田清輝とのおもしろい共通点もありました。黒田清輝のフランス留学の目的は法律学を修めることでしたが、

大下藤次郎も法律を志向していたのですね。

萬さんについて、もっと知っておくことがありそうで、図録の解説を読むのが楽しかった。

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息子は細い道を選んであるく。

だまし絵みたいでしょ。

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小川とのアナロジー。

絵ももっといろんな角度から見たいし、細部を見落とさないようにしたい。

ほんとうに独り言のような記事になってしまって、読んでくれた方、忝い。

ではでは☆