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『産めないからもらっちゃった!』 うさぎママ(メタモル出版)

りさりさんから、『きみとうたった愛のうた』とともに頂いた本です。

私もまったく予習をしない人間で、メイプル家とあるからてっきり
外国の方のお話ななろうなあと思っていました。いったい…

いや、たぶん、日本のこの風土では「産めないからもらっちゃった!」と
かろやかに言ってはいけない雰囲気があり、それを飛び越えるのはやはり
海外の方…って偏見ですね。すみません。


メイプル家にはうさぎママとマシュー、そして「もらっちゃった!」
アンがいます。

マシュー、アン、メイプルから連想されるのは、もちろん『赤毛のアン』ですが、

まえがきでうさぎママは子どもの頃、『赤毛のアン』が大好きでそして大きらいだった、と
書いています。

『赤毛のアン』の前向きで真摯な生き方がすきで、一方、マシューとマリラに
愛され、理解されているアンが嫌いだったと。

べつの理由で私もアンについて、ん?というところはあったのですが、
昔も今も、嫌いと言ってはいけない空気がアンにはありますよね…。

私はその日あったばかりのダイアナに「腹心の友」になってくれ、と迫る場面が気持ち悪かった。
だって近所に住んでいる女の子というだけなんですよ?それなのにいきなり腹心の友の誓いって
どんだけ一方的なんだ、というところですよ。


ギルバートに対して意地を張ったり、負けず嫌いから屋根の上を歩いて見事に落っこちて
脚を折ったり、赤毛に対してひどい劣等感を持っていたり、あげく髪を緑に染めてしまったり、
一生懸命に作ったレイヤーケーキがじつは消毒薬入りだったり、そんなアンには共感できたのですが。

アンももらわれてきた子でしたね。

養子というともうひとり思い出す児童文学者が、リンドグレーン。


彼女は十代で未婚の母になり、長男ラッセルを出産し、養子に出します。
そうせざるを得なかったのです。秘書として働きながら、遠路はるばる鉄道ででかけて
ラッセルと逢い、自分が育てられるようになったところでラッセルをひきとるのですが。

子どもの頃「長くつ下のピッピ」を読んでいた時は、痛快な強い女の子だ、と思っていましたが、
そして病気で退屈した娘のために作ったお話だったはずですが、

ピッピには孤児は不幸だとか、女の子は弱いとか、學校に来ない子どもはダメだとか、
そんな世間に負けない強さがあり、リンドグレーンの生きてきた道を思うと、ピッピは
リンドグレーンだなあと思うわけです。リンドグレーンの「ピッピ」や「やかまし村」ほどは
有名じゃないかもしれない物語では、孤児の男の子が活躍しています。



私は養子ではなく、息子も養子ではないのですが、
○○じゃないと可哀そうだ、○○なら可哀そうなはずだ、

という思い込みを押し付ける人とは常に戦ってきましたから、

(わりと昔からの友人や親戚、実家の近所の人の方が私に対して、
たやすく子どもがこれでは苦労する、これから大変だ、という気がします。
ほんとうに相手のことを考えるって難しいなあとそのたびにわが身を
顧みさせられます)

タイトルに「もらっちゃった!」を選んだ気持はなんとなくわかる気がします。



「授かった」「迎える」という言葉を選ぶ方の気持ちもわかりますが、
世の中に出た時に、娘のアンさんがもらわれた、という言葉で怯んだりせず、

「そうなんです」と心穏やかに話せる子になってほしい、という考えにも
頷かされました。



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現在は二十代になったアンさんとうさぎママ。


アンさんが友達から予期せぬ妊娠で悩んでいる、という相談を
持ちかけられたエピソードでは、

中絶か産んで育てるの二者択一に悩む友達に、産んで養子に出すという
選択肢がないことに驚き、うさぎママに話すアンさん。

アンさんは養子にもらわれて、うさぎママに育てられてほんとうに
しあわせだったのでしょう。

望まれない命というものがこの世にはある、と圧して来るものがあります。

声高に主張するのではなく、アンさんとの年月をかろやかに描くことで、
生まれてきた子どもは幸せになる可能性があることを伝えようとしているようです。

幸せになる可能性、なんて言い方ではなく、生まれてきただけで幸せに
なれるはずなんだ、と言いたいところですが、

言えないような気がしてしまうあたりが自分、まだまだだなと思います。

巻末に「資料・特別養子縁組の現状と手続き」
インタビュー民間団体「アクロス・ジャパン」

があります。