東日本大震災のとき何してた? ブログネタ:東日本大震災のとき何してた? 参加中
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3月11日に息子をお迎えに行ったら、やっぱりクラスのお母さんたちとその話題が出て、

話していたら、めずらしいことに、胃の腑に熱湯でも入れられたような痛みを瞬間、

感じました。


まずないことなんですけど…。


3年経った今の方が恐ろしく感じます。


私は当時街中のレストランの厨房で働いておりました。

帰りのバスに乗ろうと、バス停にたたずんでいたら、


確かに揺れがあって、でもそんな、立っていられないほどの衝撃でもなかったので、

バスが来ることを疑いもせず待っていました。


揺れから数秒くらいして、道路を挟んで向かい側の県庁から

黒っぽい背広姿の男の人たちがわらわらと走り出てきました。


まだ現実感がなくて、なんでそんなに慌ててるんだろう?と

思っていたところへケータイがなり、

(当時はガラケーでした)


大阪の赤坂尊子さんからでした。

(そんなに電話を頻繁にやりとりするような関係ではなくて、

やっぱり雲の上の人と思っています)



「あ、菅ちゃん、大丈夫やった?

いまテレビ見てたらほんとうにひどいことになって…

大丈夫?なにか要るもんがあったら…」


とテレビでこちらの地震を知ってかけてくれたようです。


そこではじめて、え!そんな大きな地震なの?

震源地どこだろう…と思いながら、いまは大丈夫、

電話をありがとうございます、


と言って、周りをみてもまだそんなに大事になっているとは

思えない光景でした。ふと、


(うちのレストラン、ガスだけど大丈夫だったろうか)


と思いましたが、もし爆発していたら火の手はこのバス停からも

見える場所なのです。


(大丈夫。息子を迎えに行かないと)


で、遅れてバスが着いたのですが、バスは始終とまり、

信号機は消え(信号が再び点くのは停電が終わった時でした)、


電柱や高い建物がグニャグニャ揺れていました。

固いはずのものがグニャグニャして見えるあたりが大地震だったんですが、

それは怖いというより、不気味でおそろしいという感じ。


引っ越して10日ほどの家は大丈夫だろうか。

ガラスケースが割れて散乱しているかもしれないから、靴のままで上ろう…

そんなことを考えながら家の近くのバス停に無事着き、


途中でみた写真館が豆腐のようにぶるぶる震えていたのが恐ろしかった。


クルマに乗ってお迎えに向かい、子どもを引き取って、

漠然とした不安に駆られ、たべものは家にあるはずなのに、

コンビニによってお弁当、そうだお弁当だけでもね、と。


物凄い行列で、コンビニ中に何重ものとぐろが巻かれている感じ。


店員さんたちもおうちに早く帰りたいだろうに、停電で電気が使えないなか、

レジの代わりに電卓を使って(電卓が動くように懐中電灯を額にくくって、

それで照らして…それは違う日だったろうか)商品を売っていました。


すぐにおなかが空いて死にそうだ、というわけじゃない。


でも、誰かと一緒に行列に並んでいることで、安心したかった。


大食い番組でお世話になったスタッフの女性から電話をもらったのを

覚えている。この日のケータイのバッテリーが

なくなる最後に話したのは宮西さんだった。それは覚えている。


電話で声を聞くのって安心できるなあと思った。


あとはよく覚えていない。


目に映った光景がスライドショーみたいに流れていく感じだった。


コンビニで息子にビームみたいなライトを見せて喜ばせてくれた若い男性、

(スマホだったのだろうか?)


暗くなった店内を外から車のヘッドライトで照らしていた店員さん、


停電なのに懐中電灯をその頃はまだ備えていなくて、

家にあった大き目のローソクにマッチをつけていたこと、


(この後しばらくローソクやマッチが店頭から消える)



寒かっただろうと思うんだけど、たしかに寒いと思った記憶はあるんだけど、

残っているのは見たもの、聞いたものだった。


私が沿岸の津波被害のニュース写真を見たのは、

街中の職場に向かう途中の、報道写真を貼っているガラスケースの中だった。


県庁前には自衛隊のジープが並び、ヘリコプターの音が聞こえるのが日常になった。


もっと掘り起こせば思い出せそうだけれど、いまだにある、

おなじ岩手県でも内陸に住んでいる私には、

沿岸の人たちの受けた被害に比べたら、という気持ちがいまだに強く、


思い出したことにも、大したことじゃなかった、私なんか、

というフィルターをつけてしまい、だんだん苦しくなってくるのでこの辺で。


この沿岸に対する引け目は消えないと思う。

でもそれでいいといまは思っている。

忘れないために。