美術館で企画展関連イベントの講演を聴いてきたのですが、

美術についてというより、さらにひろく、生きることとか、さらに狭く俗っぽく、

ペラペラしゃべる営業って信用できませんね、口下手な人の方が営業成績がいいらしいですよ、

という話への共感や、わかったと思った瞬間の落とし穴については私もつねづね感じていたので、


鷲田清一さんのおっしゃっていることは、水を呑むようにわかった。

水を呑むように、乾いた喉がよろこんでいるというか、心地よく感じるとか…。



今回の企画展は、東島毅+本田健 の2人展なのですが、このふたりの対照的な作風の画家は今回が初コラボ、どころか初対面であって、また、鷲田清一さんもおふたりの絵を見るのは今回のお話があって初めてだった、という。


そのぶっつけ合いもまた、わからないことの意味 なのかもしれません。



「自分」とは自分についての語り(騙り)である。という言葉もひっかかって、耳にのこっています。


過去の自分も自分の中で書き換えられていきますよね。あの時のトラウマがいまの自分の性格をつくったんだ、とか…。


また、


ディベートどうよ!というお話もあってこれも膝を叩きました。

ディベートは途中で意見を変えたら「負け」。誰かと話しているうちに最初の自分の考えが変わるというのが対話。


でも対話はなくなり、ディベートばかりになっているらしいです。





わからないということを正確にうけとめる。


わかった、とすぐ手を叩いてしまうより、わからない、しかしなにか大きなものを感じたと思ったら、

その衝撃をそのまま受け取って、わからないままにしておくこと。


わかった、と言いたい気持が走ってしまうこともあるけれど、経験上、わかった、と思ったときには

感じたことが崩れてしまっている気がします。


哲学者の講演ではありましたが、ニーチェとメルロー・ポンティの言葉を引用されたくらいで、

あとはふつうに暮らしているひとの持ちもので充分理解できるお話をしていただいたです。


深いことをやさしい言葉で伝えることがいちばん難しいことなのだと思うのですが。