横尾忠則現代美術館

横尾忠則さんの「横尾忠則の「昭和NIPPON」
―反復・連鎖・転移」、


図録が発売延期になったので、


(青森県立美術館から丁寧な文書が届いて、

返金のお知らせがきたのが12月だった)


その後どうなったかなあ、と検索していたら、

横尾忠則現代美術館のHPから

日記にたどりついて、足の打撲から帯状疱疹など

でずっと入院なさっていたことを知る。


日記の中に、




2013年12月3日
時々ハッとするほど上手い絵を見ることがある。それは大抵素人の描いた絵だ。デッサンは狂っているが、どうしたらこのように上手くデッサンを狂わせることができるのだろう。

何が上手いかと言うと、そこには邪心がなく、その人がそのまま自然体になれているからだ。

そして大胆である。ちっとも上手く描こうとも、評価などいっさい頭にないからだ。「描けちゃった」のだ。

絵は描こうとするものではない。絵は描かされなければならない。でないと、「描けちゃった」というような絵は生まれない。

「描けちゃった」という絵は、神が薄ら引いた線をただ無心になぞるだけだ。

そんな神の引いた線が大抵の人は気づかない。だから自分で描こうとする。そんな自分がいるから、かえって神のデッサンが見えないだけだ。


とあって、


山口晃さんの本の中にあった、


へたくそな絵の方がいい、という言葉も思い出す。中途半端に描けて絵心はないという絵がいちばんよくないそうです。


私は正真正銘下手で、でも昔から図画工作や美術はすきだったので、

こういう言葉を目にすると、すんごくいい気になれます(笑)。


ハッとするほどデッサンの狂った、パースがどっかにいっちゃった、

そんな絵でももしかしたら見る人が見れば羨ましいほどの絵だったりして!と

妄想に浸れる。


また、


2013年12月11日
今回のケガは大きい転期の予兆だという風に考えられるようになってきた。ケガもまんざらじゃないぞ、という声が脳ではなく、体の中から聞こえ始めた。

歩かなければ歩かなくなる。肉体が意志をコントロールすることもある。


全然ちがうけれど、


たとえば父の認知症もこれはこれでよかった、と思うことがある。

認知症になっていなかったら、たぶん、父に電話をかけたり、

実家に頻繁に帰ることもなく、


父も頑固王のままだったと思われる。最近の父は、素直でかわいげがある老人だ。

認知症で性格が変わるというのはよく聞くので、ちょっと可愛い感じになってよかったと思う。


父に親しみを感じられるようになったことがよかったことかなあ。


この数年の自分を考えても、膝を痛めて走るどころかあるけなかった時期があるけれど、

おかげでgymに通うようになり、かすかな兆のあった五十肩がもう影も形もない。


(五十肩で悩んでいた友達から教えられたのですが、片腕をまっすぐ耳にくっつくくらいに高くあげて、

できるだけ耳に近づけるのですが、このとき、抵抗や痛みがすこしでもあったら、すでに五十肩なんだそうです。私は左肩がそうで、2,3年ずっとすこしだけ抵抗があったのですが、もうすっかり消えてしまいました)


また、膝や腰が痛くなったり、それが治ったりすることを繰り返す中で、

自分の体について考えることができるようになったと思われます。


いろんなことに対して、



これはきっとなにかの予兆だ、

と感じたり、いい方に考えられるのは、


きっといま健康だということなんだろうなあ。


読みたい本がいっぱいあって、後ろ髪を引かれる思いだけど、


いろいろバランスよくやらないとね。


天気がいいうちにgymとランニング、そしてきょうこそ、

ゴーグルを買いに行かなきゃ!