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「姥ざかり」から4冊目の「姥勝手」までの表紙の歌子さんが、

歌子さんのすきなラベンダー色ファッションではあるけれど、

メルヘンチックな可愛いおばあちゃまから、ファッショナブルでかっこいい熟年レディに変わっているのも、

今回はじめて気づいて、時代を反映しているなあと思う。

(「姥ざかり」は1981年、「姥勝手」は1993年刊)

田辺聖子さんの別の小説でやっぱり高校時代に読んですきだった「風をください」は、付き合い始めが大学生と一回り上のベテランOL、という設定で、


当時としてはあり得ない組み合わせだったかもしれないけど、

今じゃ平凡とは言わないけれど、そんなカップルもあっていいでしょ、という感じ。

時代を先取りしていたというか、こういうふうな考えもあるんじゃないかという柔らかい見方だからかなあ。

「姥ざかり」から一貫して変わらないのは3人の息子たち、世間的には社長だったり重役だったりして、妻子持ちで落ち着いた壮年の男たちなのに、お母ちゃんの前では、ボンクラでお金のことをうるさくいってきたり、一人暮らしを謳歌している歌子さんにボケたんじゃないか、騙されているんじゃないかとうるさい。その嫁たちもみんな歌子さんより時代に遅れた固い考え方で。

ところが、このうんざりする連中だけがずっと変わらないでいてくれる、読み手にとってのレギュラー陣になっているので可笑しい。

歌子さんを慕っていた番頭も女衆も、ひとりひとりあちらへ旅立ち、宝塚の大ファンだった叔母さんも大往生をしたらしい。


歌子さんの70代~80代の遊んだり学んだり海外旅行をしたり、書道教室で教えたり、ボーイフレンドとお酒を飲んだり女友達とカラオケに行ったりの日々は充実していて、

はじめて読んだ高校時代は老後もすてきなことがあるんだなあ!と思ったんだけど、

いま読むと、嫌なことやうんざりする周りの人々が案外アクセントになっているところもあるんじゃないかなあと思う。

息子たちとその嫁たち、歌子さんの友達はみんな歌子さんのように趣味やボランティアに生きがいを感じているけれど、同じ年代でも猜疑心の塊で口をついて出るのは汚い言葉のおばあさんや、無礼な若者、横柄な口の利き方の男…

そう、歌子さんであっても、嫌な人間とまったく関わらずに生きていられないし、

時に体調を崩して、自分の生き方を省みたりすることもある、

いつも元気なスーパーおばあちゃんではないし、達観してばかりでもない。

田辺聖子さんの叔母さまがモデルだったという歌子さんも、いまでは田辺さんより年下になってしまったなあ。

もう一度歌子さんを描くとしたら、何歳のどんな歌子さんになるんだろう?


本の感想とはちがうけれど、
歌子さんの強欲な息子が、うちのものだったかもしれない書画骨董の話に一人で勇み立つところがあって、

文晁と呉春の軸ものが疎開で預けた荷物の中にあった、返してもらうことになりそうだ、という話なのですが、

私、文晁の絵を見たのは去年のサントリー美術館「谷文晁展」がはじめてですわ(笑)。で、あー、文晁ね、呉春ね、と思ったのですが、

前に読んだ時は文晁も呉春も当然知らないよなあ…どう読んでいたんだろう。知らなくても楽しめる作品なんだけど。

お洒落好きの歌子さんが海外旅行で西洋七宝(エマーユとルビ)のブローチを買って、西洋骨董のアクセサリーを蒐めるようになるくだりで、


エマーユ。

に反応。エマーユってあれだな!と。


本は読み返すと最初の感激が薄れるから絶対読み返さないというひともいるけれど、

読み返すと前に読んだ時はけっこう読み飛ばしていたところもキャッチできていい。てか知らないことが書いてあっても調べないんですね、ワタシ。