「大場電気鍍金工業所/やもり つげ義春コレクション」(ちくま文庫)

先日、といっても1/11のことですから一昨日なのですが、実感としては2週間くらい前に感じる、「なぜいま『つげ義春なのか』」で山下裕二さんの講演のあと、

つげさんのマンガが読みたくなって、数冊購入してまっさきに読んだのがこちらです。

つげさんに、あのメッキ工場ではたらく少年が長靴に硫酸が入って、というエピソードは実話ですかと聞いたら本当だと言っていた


というのを聴いてこちらはそれはぜひ見なくては!と。

つげさんの文章の本(というのも変だが)も読んだのですが
私の中にもつげさん的なというか、貧しいものや古いものに
惹かれる性質が昔からあり


森茉莉の「贅沢貧乏」も、べつに森鷗外長女とか耽美派とか、そんな予備知識はなく、
ただ六畳間のアパートに黒猫と暮らす牟礼魔利の貧乏の現実に惹かれたからでした。












つげさん自身が小学校の頃から学校を休んで(休ませられて)家計のために働くという
暮らしで、実際にメッキ工場ではたらいていたこともあります。

メッキ工場の社長は肺をやられて亡くなり、残された奥さんがひっぱってきたメッキ工と夜逃げして残された少年はdぷなるんだろう、というところでポーンと突き放されるような終わり方がすごくいい、

でもメッキ工場で働いていた工員で体を壊したひとの描写とか、貧しさと病気の描写が忘れられない。













この文庫の最後に収められた「別離」。
この作品を最後につげさんはマンガを一切書いていないのですが、
その最後の作品のタイトルが「別離」。

これもつげさんの自伝的要を使った作品ですが、すべてが事実そのままということはないにしても、

自殺しようと薬を服んだ主人公を大家さんの飼っていた犬がみつめていて、やがてその影が朧になり、意識が途切れる場面は、

「漫画術」でつげさんが語っておられた、

リアリティを出すための巧みなエピソードなのだろうか、と思ったりしました。

薬で意識のなくなった、鼾をかいてあきらかに様子がおかしいつげさんを病院に担ぎ込んだ友人や、おむつを当てようとした看護婦や医師にものすごい力で抵抗し、看護婦さんがトイレに連れて行ったら、
意識がないまま、パンパンの膀胱から放水して、それが寝小便でもするような爽快感だったとか、

そこは実話だったと語っていたのは「苦節十年記」だったかなあ。

この2日の間にけっこう読んでおるのですよ。









最後のページの、消え入りそうな自分の影にとめどなく流れる涙、

から27年、つげさんはマンガを描くのをやめています。

解説は赤瀬川原平さんで、「悲惨な町の安全運転」というタイトルで、マンガを離れて名画のように絵として眺めてしまう、という文章でしめくくっておられます。