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こちらの神社には兜跋毘沙門天があり、萬鉄五郎の絶筆となった絵が萬さんの故郷の神社の兜跋毘沙門天のイメージがあったのではないか、と解説で言ってみたものの実物を見たことがないと説得力がいまいちないよな、と思って、

いまごろか!という感じですが、兜跋毘沙門天に会いにきたわけです。

神社に入るまでも山道でしたが、さらに順路にしたがって上っていきます。


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 おめあての毘沙門天までの道のりは長いですが、途中も見ものだらけなので、時間をきにしつつも、わくわくしてしまいます。

神社庁という名前もはじめて知りました。

ここに泣き相撲の石彫と、泣き相撲の土俵がありました。

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泣き相撲の由来は、坂上田村麻呂まで遡り、あどけない童子の泣き相撲になったという歴史があるそうです。

近くに由来を説明した立て札がありました。

延暦21年(802)坂上田村麻呂がこの地に熊野神社を建て、それを祝うまつりとして部下に相撲を取らせたのが始まりといわれています。その後、猿ヶ石川をはさむ北成島と南成島から若者が6人ずつ出て相撲を取るようになったが、勝ったほうが五穀豊穣となるとの言い伝えから、しばし流血戦となるほど争いが激しくなっていきました。このことから宝永3年(1706)から、数え2歳の幼児の成長を祈願する「泣き相撲」が始まりました。土俵に立った親方が幼児を抱き「ヨォヨォ」のかけ声で両方の顔を2度近づけ、泣いたほうが負けです。
毎年、成島三熊野神社例大祭である9月19日に「十二番角力式泣き相撲」が開催されます。
また、昭和63年毘沙門天の収蔵庫への遷座一周年を記念するイベントとして、ゴールデンウィークに「毘沙門まつり・全国泣き相撲大会」を開始。
十二番角力式が、南北成島に所縁のある長男12名しか出場できないのに対し、全国大会は性別や出身の制限なく出場できるため、今では北海道から沖縄まで全国から800名を超える豆力士が成島三熊野神社に集結し、ユニークな戦いを繰り広げて成長祈願を行っています。
十二番角力式は花巻市指定無形民俗文化財(平成5年4月15日)に指定されています。


夕方のニュースなどで泣いている赤ちゃんに笑ったものだったなあ。

歴史を知ると深いものだったのだなあと思わせられます。