映画館に予告がはじまったタイミングで着いたので、
ファーストシーンを見逃さずにすんだです。
役所広司演じる伊上洪作が伊豆の実家に顔出しにきて、
妹たちと朝ごはんをたべるのですが、
会話のテンポの早さや、たえず何かしながら喋っている自然で、映画的な食卓風景に、
(これはすきなタイプの映画だ!)
とワクワクしました。
おろし金で山葵をすりおろして、藍色の模様の小皿や小鉢の並ぶ、
昭和30年代の慎ましくも清らかな朝餉の風景で、
会話のなかから、作家・伊上には二人の妹があり、
下の妹・南果歩は古美術商で、上の妹が結婚して家を継いだんだなとわかってきます。
この間に伊上洪作の母の八重・樹木希林がなにやらどら焼きを頬張りながらすーっとやってきて、
また去る感じがもう可笑しい。
洪作という名前から、「しろばんば」「夏草冬濤」の洪作、洪ちゃを思い出し、
ということは樹木希林演じる八重さんこそ洪作をなぜだかはよくわからないが、自分にとっての敵であるおぬいばあさんに差し出したんだよなあ。
「次郎物語」と同じ頃読み、大人になって読み返したのも同じ頃なので、印象が混じり合っているのですが、
「しろばんば」の土蔵の中での生活はむしろ楽しそうで、
おぬいばあさんが洪作を甘やかして、おめざに口に放ってくれる黒飴とか、
大根もなぜかはいっているけれど不思議においしいライスカレーとか。
樹木希林の演じる八重は夫が亡くなる少し前から物忘れがはじまっているんですが、
最初に洪作にそれを指摘されても、むしろ東京に帰ったら医者にみてもらいなさい、と、自分の頭をてんてんと叩く。
その頭を叩くところや、
宮崎あおい演じる、洪作の三女が八重の思い込みの激しさや当てこすりに腹を立てて、
もうおばあちゃんとは絶交!
と叫んで席を立つと、
手のひらをひらひら振って、
こっちこそあんたとはバイバイ、
とやる仕草とか、
さらにまた三年がたって、いよいよ感情のコントロールがきかなくなった八重の自分を止めようとする家族や家の使用人にたいする激しい抵抗、というか、誰彼構わず叩いたり暴れたり。
その次の場面では、パニックが落ち着いたあとの、蕩けるような愛嬌のある、こじんまりとしたおばあさんになっていて、
どこまでがボケか演技かわかりゃしないのよ、
と、映画の中で娘たちが再三繰り返していましたが、
樹木希林の演技も、演技というプレートがあってそれで演じているようなものとは次元がちがって、
役になりきるというのでもなく、
演技と素顔の樹木希林の間を取っ払ってしまったような自在な感じがありました。
自在にやりながらも、惹きつける。
晩年の八重が夜に起き出して懐中電灯をもってなにかを探そうとして家じゅうあるき、
最後に食堂にきて自分の部屋にまた戻る、
という場面では、
八重の徘徊に振り回されている伊上家の女たち、洪作の妻や娘たち、お手伝いさん(当時は女中と言っただろうか)が洪作にうったえているときの、
シュークリームがカスタードクリームが黄色くて濃厚そうでおいしそうだった。伊豆伊東が舞台だけあって、
女たちがきれいな橙の蜜柑をいpくつも剥きながら話したりして、
ご馳走がわーっと出る場面より、何かしながら蜜柑を剥いたり、夜食に出てきたケーキなどが印象に残った。パンフレットはすでにないので、
パンフレットを読めば夜食の蜜柑とケーキや、朝ごはんの光景についてもなにかあったかも。
井上靖の小説は「しろばんば」と「夏草冬濤」しか読んでいないのですが、その中でも食べ物が実においしそうだった…ってそんな話じゃないのでは(笑)。
なにかを探し続けていた八重が、
洪作を返して欲しいと思っているのに、どうしたら返してもらえるのかわからないのですよ、
と、
すでに目の前の洪作を我が子だとわからなくなっている状態で、
とつとつと語る場面がやはり秀逸でした。アップの樹木希林の横顔と、目に滲み出るものがあって、
財布の中にだいじそうにしまわれていたボロボロの作文。
水たまりだらけの校庭をみながらいろんな海を想像し、
ぼくが一番渡りたい海はお母さんと渡る海、
と何度も何度も幼い少女のような無垢の笑顔で読む母と、
堪らなくなってかけ出した洪作。
過剰なまでに自分の三人の娘たちを自分の側から離そうとしなかった洪作。
それは幼い日に自分だけが母に捨てられ、おぬいばあさんに拾われたと思い、
娘たちにはそんな思いをさせたくないからだったのですが、
実際は海がなによりも怖かった八重が、もし子供達みんなが死んでしまったら伊上家の血が絶える、
いちばん気性の強い男の子を預けよう、と、洪作を手放したのでした。
夜中の徘徊は洪作をもとめて探しまわっていたのでした。
映画の予告でみた八重を背負う場面の、
樹木希林の小ささと、役所広司の広い背中。
役所広司はもう少し細身だったと思っていたので、映画がはじまったときに貫禄がついたなあと思ったのですが、
樹木希林の八重をより小さく、可愛らしく、童女のように見せるための役作りだったのかなあ。
わが母の記は、
同時にわが父の記でもありました。
過保護で神経質な作家である父と、その庇護の翼から出たいともがく次女と三女(長女は映画の最初の方であっけなく結婚したのでそれほどの束縛はない)。
繊細な次女は最後にハワイ留学を父に話し、
留学先では打って変わって積極的になり、1年サイクルで彼氏が変わるまでに。
父親とおなじ反骨の血をもつ三女は高校時代から父に反抗し、自分のやりたいことを通す強さをもちますが、
宮崎あおいが演じた三女と洪作の場面がいちばん多いのですが、
原作を読んでいないので勘ですが、
三女がいちばん父にも、父の母、八重にも似ていたのではないか。
そう思えば、ほかのふたりの姉たちよりもきつく当たられていたのも、激しい愛の裏返しだったのではないかと。
樹木希林の演技はほんとうに演技という次元ではなく、ただただ目をみはっていました。
ずっとすきな女優さんでしたが、わりあい、脇役が多かったので主演でたっぷり見られてうれしかった。
少し前にみた香港映画「桃さんのしあわせ」を日本でやるなら、
ロジャー役は誰でも、桃さんは樹木希林しか考えられないなあと思って、
樹木希林しか考えられない映画をもっとみたいと思ったんでした。
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