映画の中では、「やかん」と「芝浜」の公演が入っていたんですが、
「やかん」があってあいだに家族と旅行する談志や、若い頃の映像などがあり、
オオトリが「芝浜」。
映画のパンフレットのなかでは、
堀井憲一郎が「やかん」について談志のスピリットが芯にまで入り込んでいると語り、
談志は自らの「芝浜」について語っている。
映画の中にはふたつの演目以外にも、自分の「黄金餅」を解説してみせたあとで、そのクライマックスをやる場面もあって、
餅に入れた小判をのみこんだ死体を担いで火葬場に向かう男の道中、
見事に焼けた仏のおなかから焼けた小判を掘り出す仕草と満面の狂喜。
文字通りの狂喜!!
ものすごくシャイなひとだと木久扇師匠がその選挙に出た時のエピソードをまくらで語っていたのを思い出す、名作落語をスクランブルにした落語ちゃんちゃかちゃん。
照れ屋だから、小噺やジョークに照れてしまって入れない。
けれども入り込んでいるときの談志の顔のやわらかさはそれだけで芸だった。
若い頃の顔はあまりいいと思わないけれど、60歳をすぎた頃から不思議に柔らかな顔になり、
柔和というのではなく、表情が顔の骨の上でよく練られた白い粘土のように形をかえる。
「芝浜」のあらすじは知ってはいても、腕はいいが怠け者で大酒飲みの亭主を持ち、どん底の貧乏で喘いでいた女房が、
亭主が芝の浜で42両の入った財布を拾ってきて、どうしたか。
夢だったんだ夢だったんだ、と、怠け者でも女房への信頼は厚い亭主をまんまと騙して3年目に告白をはじめ、
3年前の亭主がこれから先は安泰と酒を呑んで寝てしまったあと、
どうしようどうしよう、と、表に飛び出してしまうその顔。
大家に何かあったと見透かされ、その財布の中身を使ったらお縄だと諭され、一計を案じる。
さっとした落語では賢い女房が鼻につくともいえるけれど、談志の女房は亭主の心を入れ替えての働きぶりと迷惑をかけた自分へのねぎらいに胸を刺される。
寒い日の朝に、お前はコタツに入っていろよ、と優しく声をかける亭主。
そして三年後の大晦日、働き者で決まりごとをきちんとする女房は畳を変え、障子も貼り直し、そんな女房が嬉しい亭主。
騙されていたと一時は女房を殴ろうとつかみかかった亭主も、女房のこの三年に思いをめぐらせ、
女房に感謝する。
ここで貞女の鏡のような女房が、お酒をのもう、と言う。
最初、これは談志がアドリブで演った形だったそうだけれど、飲もう、はよかった。
泣き顔、嬉し泣き 、笑い、口元を抑える手つきもよかった。
スクリーンの大きな画面で真正面に談志がいるというのも。
いいなあと思う落語家ってみんな手がきれいというか、魅せますね。まだ数回みたくらいでなにをいうかですが(笑)。歌丸師匠の手もよかったしなあ。
パンフレットのなかで、さらに続きを考えて、ねえあんた談志はあんなこと言ってるけど焼き鳥屋で一杯やろう、と夫婦が逃げ出す、そんな噺をやりたいといっていて、
芝浜は誰にでもできるといいながら、自分にしかできない芝浜を模索していたんだなあと。
貴重なフィルムを見られてよかった。
落語は原作はあるけれど、演出も役者も効果もすべて自分でやれる、ひとり映画のようなところもあるので、映画は自然になじむなあ。
談志自身も映画が好きだったというのも、あのスタイルを生み出したのかなあ
談志の書いた本も読んでみようかと。