
タイトルの表裏、の意味はよくわかったのですが、
協奏曲、とは、そんな井上ひさしの文学を支えて一緒に走っていた時代を描いたという意味なのか、
表裏があってもそれはひとつの協奏曲となったのだ、という意味なのか。
井上ひさしの最期を看取ることを許されたのは、好子さんとの三姉妹のうち、末の麻矢さんだけ。
長女都さんは二十代からずっと座長をつとめ、最後に父から弁護士を通じて娘ではない、との通告をされます。
次女の綾さんについてはなぜ面会を許されなかったのかわかりませんが、
憲法九条問題や日本のコメ問題を憂えた作家がその最期に娘たちの扱いに差をつけたのはいかがなものか。
ちなみに、都さん、綾さん、麻矢さんでみな「や」のつく名前なのは言葉遊びがすきだった作家らしいとも言えますが、
もしかしたら、
子どもをどこかペットのような、自分の道具のようなものと感じていた表れかも。
都さんがあとがきを書いていますが、この本の執筆動機はそのように最期の瞬間に父に切り捨てられた娘を救うためだったようです。
とはいえ、都さんの目から見たお母さん、好子さんも何をするかわからない不安定な人だったようです。
本書では夫婦喧嘩のときにまるで舞台の登場人物になったかのような大げさなセリフ、わざとらしい装飾がてんこ盛りの言い方をする井上ひさしに、
憤る好子さんの場面があるのですが、
井上ひさしがあれほど言葉いぢりにこだわったのは、人の心が分からないのを隠すためだったのではないか、と思い当たりました。
暴力夫という以上に、厄介なツンデレ・パワハラ・モラハラ作家。
その滑稽なまでの権威への憧れは、
憲法九条を守れ!という朝日新聞の広告枠1000万円を呼びかけて10人で買おう、
という話になったとき、
湯川秀樹博士と、大江健三郎さんに頼もうと井上ひさしが言い出した時に
曝け出されます。
どちらも例によって好子さんが依頼に行ったのですが、
大江健三郎さんを訪ねた時、ずいぶん酩酊していたらしく、
(もちろんアポなしではないのですが)
持ってきた菓子折りを放り投げられて這々の体で逃げ帰ったそうです。
で、
そのことを告げられた井上ひさしは、大江さんがいないんじゃ、まだ時期尚早ということだ、
と、トーンダウン。そんなに大江健三郎がすきか。
いや好子さんの観察によれば大江文学を尊敬していたというより、
その背景、東大、左翼、デビュー時からノーベル文学賞をささやかれているという輝かしさにあこがれていただけのようだ。大江さんの小説が世界で評価されると自分の小説の翻訳をしてくれるひとを探す、というどこか滑稽で、
もしかしたらそこがこの人には私がいないとダメ、
と思わせるポイントだったのかなあ。
見栄っ張りでプライドが高く、
うすうす感じてはいましたが
自分の容姿をことさら下げていう人ってナル入ってますよね。
出っ歯だのメガネだのとよくエッセイでは自虐ネタサービスの井上ひさしでしたが、
目がキラキラしていてそんな悪くもないんじゃ、
と思っていたがやはりナルちゃんだったか。
好子さんのうちに婿養子として入ったので好子さんの両親と暮らしているわけですが、
そういえばエッセイには三人の娘さんと好子さんは登場しても、
舅と姑は一切出てこなかったような。
両親の前で哀れな弱い娘でありたくないとの思いから、
暴力にはむかい、一層ヒドイ目に遭う娘を両親はオロオロしながらも
ひさしに手をあげるなどの行為にはでなかった。
好子さんのお父さんなんか、本気を出したら机の前で一日中呻吟しているひさしなんかやっつけられたも思うんですが、
娘への暴力が始まるとそこから走って逃げ、ただ泣いて堪えていたというのが私にはいちばん許せないことだったな。
生まれつきの障害で、ひとの気持ちがわからないという症状のものがあり、
言葉いぢりへの傾倒、人間関係への依存などを考えるとその疑いは濃くなるのですが、
そんな井上ひさしの文学を支えていた好子さんに私はDV被害者にありがちな、
この人には私がいないとダメ、
という思いと、
ご自身の中の不安定さが互いを不幸な形で縛りあっていたのではないか。
私はこの本を井上ひさしの文学研究のために
読んだのではなく、
DV、共依存の資料として読みました。
きれいごとでもいいから、
離婚後の好子さんと娘さんたちが紆余曲折を経てそれぞれの幸せを掴んだ、
とまとめて欲しかったのですが、
離婚するところまでで本書は幕を閉じています。