長谷川潾二郎展  | 菅原初代オフィシャルブログ「魔女菅原のブログ」

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な、なぜこんなところに!!



と驚く山口フィンちゃん。




いやほら、猫つながりでね。


いまから、「長谷川潾二郎展」について書こうと思います。


長谷川潾二郎といえば、



「かたっぽの髭のない猫」の肖像ですよね(笑)。

フィンちゃんはもちろん、両方とも髭がありますが。



あの髭がなぜ片方ないか、の理由が絵の解説にあって、

そこにひどく感銘をうけた私です。




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この猫ちゃんの名前は、タロー。



長谷川潾二郎は文章もよくしたひとで、


だいたい、長谷川四兄弟はみなそれぞれに

文芸に多才を発揮しています。


長男・海太郎は牧逸馬、林不忘、谷譲次の3つのペンネームで活躍していますし、

四男・四郎は作家・詩人・翻訳・演劇など多彩に活躍しています。




幼なじみに久生十蘭や水谷準がいて、彼らと

中学時代に親しく交友をしたり、


二十代のころにはその水谷準が編集に携わっていた

『探偵趣味』(江戸川乱歩の創刊した雑誌)に、


地味井平造のペンネームで小説を発表したりしています。


そのせいか、自分の絵について語っている文章にも

飄飄とした雰囲気が漂っています。



猫を飼ったことのあるひとなら分かると思いますが、

猫って、こっちの思ったようには動いてくれません。


おなじポーズを取らせようとしてもうまくいかないわけだ。


猫がうちには居つかないのではないか、という不安に襲われながらも

(それまでの猫はみな行方不明になってしまっていた)飼いだした

タローはほんとうにいい猫で、


潾二郎はタローをモデルに絵を描こうと思いつきます。




この絵をかきはじめた9月といまとでは気候がちがうのだ、

と気づいた潾二郎は、10月下旬にこの絵をしまって、

次の年の9月を待ちます。



そうして翌年の9月中旬に描きあがった猫の絵には、

髭がなかった(笑)。



潾二郎が観ていたのは猫の毛並みのうつくしさでした。



「髭は会った方がいい。髭はあっても差し支えない。


しかし私はどうして髭を描くのを忘れたのだろうか。



タローを描いている時、私は改めてその毛並みの美しさに感心した。


生きている毛皮。それは他の物にない、代用品のない美しさだった。



これに比較すると、天鵞絨も絹も他のどんな織物も精彩のない死物に見えるのだった。

生命に満ち溢れた深い耀き、それが猫である。



猫を飼っている凡ての人はその事を知っている。知らなくても知っている。

本当に知っていることは、知らないように見えるのだろうか。


…私は猫の生きている毛並みの美しさを現すことに熱中した。その為髭を忘れたのだ。」



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「玩具と絵本」



潾二郎の静物画がすきです。


たしかにけん玉も紙風船も絵本も鉛筆も、


現実の私たちの周りにあるものばかり、のはずですが、


潾二郎の絵の中では、なにかがそこにあるような感じに見えるのです。



いちばん近い感覚を与えるのは、マグリットかなあ。





潾二郎はシュールレアリスムの画家ではないのですが、


なにか共通する目をもっている画家のような気がしました。




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「芭蕉の庭」


有元利夫の絵の人物たちも、描いた有元利夫に

よく似ていますが、


ここに座っているお河童の女の子の顔もまた、

潾二郎によく似ています。



「猫」と「芭蕉の庭」が特にすきです。





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ほら、来年は、うさぎ年ですから。


描かれたのは1930年。


昭和5年。巳年です。


潾二郎は1904年(明治37年)1月7日、函館市元町に生まれています。



そうか。森茉莉の1コ下か。と考える私です。



ちなみに松本清張や太宰治、淀川長治については、

森茉莉の妹、杏奴とおなじ1909年(明治42年)生まれか、


という認識だ。偏った認識ですまん。



『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』には、


潾二郎の言葉がまとめられていて、その頁が特にすきで

何度も何度も読み返しています。

(というと、まるで絵がイマイチのように取られそうですが、


いや、それくらい文章に魅力があるということですよ)



詩の中心の中心を把握できるだろうか。

私が手にしたものは、外皮のその内側のもう一つの外皮だろうか。


私は一日を一時間のように、一ヶ年を一ヶ月のように暮している。


(「制作日記」)




朝起きて夜具をたたむ


面積が突然変わる


大がたちまち小になる


このような奇蹟に驚かずに


私達は生きている





よい画はその周囲をよい匂いで染める。

よい画は絶えずよい匂いを発散する。

よい匂い、それは人間の魂の匂いだ。

人間のうつくしい魂の匂い、それが人類の持つ最高の宝である。



私の素顔、それは私の絵画だ、私の詩だ。



現実は精巧に出来た造られた夢である。



(未定稿「絵画について」)




宮城県美術館で長谷川潾二郎美術展があるということは

なにかで知っていたけれど、


その美術展に赴くまで、どんな画家で、どんな絵があるのか、

正味のところは分かっていなかったのでした。



美術展に行ってよかった。


そしてこの美術展の図録を兼ねた書籍を買ってきてよかったです。


潾二郎の言葉は、私にもっとものごとについて深く考えることを促すようです。