川上未映子 ヒヨコ舎 2006年
友達が印刷の仕事をやっていて、
ときどき、今月はこのひとのこんな作品を
打ったよと聞かせてくれる。
打つ、というのは、テキスト入力のお仕事だからですが、
少し前に、講談社文庫に入ることになった「そら頭は…」
を入力して、
「ミエコ最高ー」
と笑っていたので、おお、そんなにおもしろいのかと
思っていたら、
「ヘブン」を先に読んでしまい、
あまりにもよかったので、ほかの作品を読むのがためらわれていたんです。
でも、やっぱりその友達と「ヘヴン」の話をしていたら、
ほかのも読みてぇ、という気持ちが盛り上がって来て。
子供の頃、お小遣をためてシルバニア・ファミリーの「暖炉」を
買うことにして、姉とふたりでアイスを我慢したりして
ためたお金をもってデパートにいったら、
興奮しすぎたのか、おしっこが我慢できなくて、トイレでやってしまった。
3つ上のお姉さんは迷うことなく、せっかくためたお金でミエコのパンツを
買ってきてくれて、無言でこれをはけ、というんだなー。
せっかくためたお金じゃないか、パンツはまあ、家に帰るまでの我慢で
暖炉を買う方が、とはならなかったところが…
「なんかこう、暖かなものを手に入れたというか」
と、当時の思い出にほろりとして、姉に電話をすればスマスマに
夢中でまったく覚えていなかったりする(笑)。
いちおう、日付が書いてあって日記風なんですが、
倉橋由美子の死に、
「誤解を恐れずに云うと倉橋氏は私にとってあんまりにも
肉体のない作家やった。
文章には凡そ肉体のないものであってもその向こうに想像する肉体
すら持たないそんな文章であった。
時代をともに呼吸している実感などもなかった。
でもただ、倉橋氏の死の印象を喩えるならば、
ひとつのひっそりとした植物のある体系の消滅というか、
精巧な空中庭園の崩壊とか、精緻で無意味なまでに巨大な
無人宮殿の設計図の焼失、
そんなような、異動」
大島弓子をずっと読まないままきて、ある日ついに読んだのが
「バナナブレッドのプディング」
「大島弓子を今まで読めずに生きてきた。何かが怖くて、
読めずにきた。
でもそんなことはとっくに見透かされていて、大島弓子は笑っていた。
そしてこんな風にも思う。
中高生のころの私ではなくて、
「生まれてきた自分」と「生む自分」の両方がある二十九歳の今の私に、
大島弓子の物語が会いに来てくれたのではないか。」
女友達と男にセックスがらみで言われた最悪の言葉を、
いや、うちのほうがもっとだ、あんたがそう云うなら私ももういっこ
云う、と果てしなく暴露話はつづいたり、
このひとは、自分の言葉と頭で世界をみているひとなんだなあと
ひどくはまってしまったのだった。
しかし、
芥川賞受賞作の「乳と卵」、これもいま図書館から借りてきているのですが、
あまりにも「ヘブン」と「そら頭は…」がよかったので、
ちょっと読むのがコワイんですが。