人は、なぜ書くのだろうか。
たとえば、日記という一つの行動がある。一日の終わりに、その日に何があったのか、それに対して自分がどう思ったのかをつづる行動である。それを行うことで、日常が映像から言葉に当てはめられて、記憶される。
もし、日記を書かなければ、つまり、言葉として、そもそも表現されていなければ、視覚的な情報として、記憶に残っているかもしれない。残っていないかもしれない。
書くという行為は、そもそも頭の中にある概念に言葉を当てはめて、概念の連なりを言葉の体系を使ってあらわす行為なのではないだろうか。
そして、私たちは、言葉をとおして理解をするのではないだろうか。日常の知覚された情報は、言葉なしには、ただの情報に過ぎない。それを解釈し、理解する媒介として、言葉がある。だからこそ、認識は言葉の網の目の中にある。
よく、ぴったりあてはまる言葉が思いつかないことがある。
会話の中でもあるし、今のようにブログを書いているときにもある。いったん、言葉を見つけようと、口がとまり、指がとまる。頭の中で、「一体私の言わんとしていることを意味する言葉、表現はないだろうか」と考える。でも、なかなか思いつかない。
そのときは、たいてい、結局自分でも分かっていないからこそ、言えないのではないだろうか。
「分かる」ということは、認識できるということである。理解できているということである。ならば、認識を可能にする「言葉」が媒介しているはずであるから、「分かった」ものを言うことができるはずである。
もちろん、認知症の疾患があるときは別であるが、通常であれば、分かっているということは、表現できるということと同義なのではないだろうか。
分からないうちは、まだ言葉で言うことができない。
分かったということは、言葉でいうことができる。それは、すなわち、自分の言葉の世界、認識の世界に入らせることができたということである。
「書く」とは、単に言葉を当てはめる行為ではない。自分のもつ言葉の中で、書こうとしている内容を理解するための一つの手段であるのではないか。
下界の現象を、内面的世界に取り込む作業だ。