若いときって、振り返ってみると、「どうして」と思うことをしている。
いろんなことに過剰に反応したり、見えなくていいことまで見えてしまう。
慣れてしまえば、何とも思わないことも、初めてのときとか、まだなれないときは、自分の反応する感情に踊らされてしまう。それが強く心の中で増強されて、取り返しのつかないことになり、行動化してしまうことさえある。
後悔は、いくらだってあるし、元に戻れるなら、過去に戻って、行動の決断を修正したいと思う。
だが、そんなところが、一度限りの人生で、唯一のものだからこそ、否定的な見方ではなく、そこから学ぶことも必要ではないかと思う。
いろんなことが、偶然とか、他人の恣意とかが入ってきて、どんどん自分のコントロールできないことが人生の中に入り込んでいく。
自分の思うように行かず、世間の常識とやらにぶつかったり、自分に悲観的になったりすることは誰しもあるのではないだろうか。いつだって、完璧なことを望むけれど、それができないから、人は悩み、苦しむ。だからこそ、常に確実さや、絶対的なものに惹かれる。
日々の生活は、もしかすると単調にみえるかもしれない。でも、一年、いや、三年と、長いスパンでみるとなれば、それは人生を変える大きな力となって、道の方向性をつけていく。
人生という道をつくるのは、ほんのちょっとしたささいかきっかけから始まり、それが意思の大きな種となって、現実の環境の中で形をつくっていく。自分の背景であったり、周りからの応援であったり、する。もしかすると、反対の意見さえも、それに反発する気持ちが作用するかもしれない。
紆余曲折を経て、一つの道に修練していく。たとえ、同じ道に別の人がいたとしても、それは、過去も未来も違う。ただ、人生のただ一点に同じ居場所に居合わせた場所にすぎないのだ。
人の絆は、同じ平面状にいながら、無限の領域と有限の時間軸の中で、互いに触れあいながら、踊っている。
絆はふいにつくられ、ふいに消える。強められ、弱められる。同じ状態の続くことのほうが、まれである。人々の動きが、絶えず動いていることをとめることは出来ない。
絆を求めながらも、自分という一つの個体として常に動いている。不確定な動きの中には、確実なものを求めている。あやふやな動きをしていながら、じっととまって、自分の居場所を求めて、さまよう。
人は、もう一人の人間と結びつき、一定の道を一緒に歩むようになる。社会の中で、結婚と言う形で認められる。
それは、行動の自由に制限を与えるが、逆に言えば、それは制限という名の保護を与えている。常に、自分を見てくれている人がいるということ。
私たちは、矛盾した感情をもつ。
自由をもっていたい。守ってくれる場所がほしい。
二つの極の間に、揺れ動いている。

