- 精神分析ノート (〔1〕)/小此木 啓吾
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「自己分析そのものが、神経症的であり、精神分析という他者のまなざしのとりこになった証拠である。」
興味を自己に向けると、ろくなことはない。
答えのない問いに自らを落とすことを意味する。そこには、あり地獄のような未知の世界である。
問いが問いを呼び、連鎖反応のように思考が周っていく。
一人相撲を後押ししてくれるのが、精神分析であろう。
客観的な指標として、答えとなるものを差し出してくれる。性格が意味するところや、傾向が意味するところを何らかの答えを与えてくれる。
自分で導きえなかったところへと思考を向けてくれる。
だが、それで一体何になるのだ。
性格と過去の経験のつながりがわかったからって、私の性格が変わるというのか。
健全な性格を形成することに障壁となった過去の経験がわかったからといって、その過去の経験はなくなるというのか。
分析して、納得して、答えが何らかの形で与えられたとしても、今までの性格を持つ私自身であることにはなんら変わる事はないのだ。
ただ、変わったことといえば、「他者のまなざし」から見られた自分の性格がわかったことだ。
自分への満足感でもなければ、自分を自分で受け入れることになったことでもない。
「他者」を基準とした自己像を得られたのだ。
他者からどのように見られるのか。それが分かったのだ。
だが、だから何だというのか。
他者からどう見られていようと、それによって私の価値が変わる事はないし、自己満足を与えることはない。
むしろ、他者の目から見た私の価値が、自らが思う価値と同一化させてしまう恐れがある。
そうなっては、他者からの評判、評価を常に気にしなくてはならないような傾向を生んでしまう。そうなってしまえば、何と生きにくいだろう。絶えず人の目を気にしながら、自分の行動や思考を制御していかなくてはならない。
人として、どうあるべきか、自分の信念にそって行動できればよしとすればいいではないか。
自分の思考に「なぜ」と考えても、自分自身を変えることはできない。
できることは、あるがままを受けれいること。そして、あるがままの私に忠実にあること。