混乱の世界ですな
氏はもとよりトランプ大統領は、、と語っていた。そのようになっているようにもみえるが、戦争を嫌い・しないのが受けていたのだが、同じになってしまった、か。「支持」をしていた識者も一様に?をしているところである。イラン、つまりペルシャは、それは歴史的にも強かろう。分析のいくつかが興味深いところである。ところで米はことごとく他国に介入して「失敗」してきたという解釈は正しいのだろうか?普通は、正しいのだが、目的が混乱そのものであれば、失敗もまた目的でもあるのだろう。20世紀の社会主義は伝統社会を破壊することそのものが目的であったのならば、その失敗は成功であるだろう。これは言葉の問題だが、見せかけの言葉と真の目的の乖離が問題そのものであるわけだが、。そぅ、「左」を批判するものの多くもその言語・言葉の問題については、どうもお分かりではないのではないか、というところはいつも気になるところである。つまりは気が付かず「あれ?」ってなことになった、という20世紀の大問題についてである。そういう仕掛けがなされた、のだろう? 今も構図が同様のことがなされている。
一方で、実はそういった「言葉」の問題を「超えて」いるのかどうか、、今後を見なければわかりようながないのが現在ではあるだろう。逆に、見かけはしょうもないのだが、「現実」がどう動くのか? これは単なる願望の領域だろうか?そうかもしれない、今は分からない。ただどうしようもなく構造の問題が世界を絞めてきたわけだ、この解決がありえるならば、それを超えたような何かでなければ無理なのかもしれない。いずれにせよ、見せかけの言葉と「現実」の動きといったことへの注視かと思われる。
そういえば、かの方がどう背景にあるのか、ないのか、が気になるところではある。現在、この地球上の一連の流れのキーを持っているのは、やはりあの方なのだろう?!
興味深い分析がなされている。
実に興味深いことが語られている。
当時、降ってわいたように批判をしていたものたちの動画もあるのだろう?目立っていたのはお笑いタレントが軸であったようにもみえ、呆れた記憶がある。当時現場で話題にあがっていた一人の女の名が違っているかと思う。お笑いはタレントの中にはそういう「お仕事」要員としているのだろうな、と見ていたのを思い出す。目立っていたのを特定にあれやこれや書いてもいいがまぁ、いいだろう。探せば見つかるだろう、何様?といった感じだったが。似たようなことはMJ死亡のときにも起きていたよな、と思う。まぁそういうことなんだろう。ご苦労さま、といったところ。
どこかにあると思うが昨今善悪2元論がだめであるということを見た。いわんとしていることは良く分かる。が、どうなのだろうか?問題の核はこの善悪2元論を語っているものの現象の立ち位置が絶対的一元論だからなのではないのか?悪を仕立て上げられる、というのは2元論と呼ぶべきなのだろうか? 例えば司会者がいて、右と左にわけてさぁ、と議論すると司会者の立ち位置が微妙に偽装され「隠れる」のにも似ている。その分け方そのものが問題にされるべきかもしれない、という段階である、と比較的多くのものが気が付いているようにも見える。この議論のやり方自体がもう古いと思うが(藁)。語り方の問題もあるのだろう。「善」が生じたのなら同時に「悪」も生まれたわけである。容赦なく悪を敵とする、という分かりやすさが問題だろう。が、それが起きている。この病に罹患している。かつて書いたことでもあるが、この病気は、治るのだろうか。ここへ来て、再びこの病気が到来しているようだ。これは20世紀の問題でもあったかと思われる。「正しい」ことをやっていると思っていたのにまわりが屍だらけになっている、というようなこととして。言葉の問題でもあるだろう、まさにそれゆえに言葉、言語の問題が浮上していたわけだ。この問題がまるで詰められていない、と思われる。神なき思想には独裁者が生まれるが、今回は「神」がいてそれが代弁者のようになされているかのようである。ということはいくところまで行くしかない、ということになるだろうか、、。「神」がいるならば、この狂信は治療不可だろうか。ヒトは反省などしないので20世紀の問題がまた浮上してきているのだろう。八百万の神々ならば、こうしたことは起きない、ともいえる、か。
善悪論には長い歴史もあるが、親鸞のような悪を語っているわけでもないので、この議論は「難しいかもしれない」。単純に自分が悪だと思っているものはヤッてよい、むしろそれが推奨されるという発想と実行が問題なのだろうし、それが起きている。が、これは黙示録の問題でもある、と思われる。面倒な議論になるだろう。2元論は単純化である、現実は単純ではないのに「考えもせずに」レッテル張りに引っ張られる思考の浅さが問題であるが、、まぁ難しい議論になるだろう。善が勝つことになっている思想はあれとあれだろうが、それは決まっていないといったのが、あれだろう。単純さを求めないことが求められているわけだが、、さてさて、、これ自体を議論のまな板にのせる段階が推奨されるだろうと思われる。まだそれがなされたとは思えない段階であるからである。神が創造した世界になにゆえに悪があるのか?といった議論は長い思想の歴史もあるのだろう。それを「説明」するに苦労もしていたわけである。仏教ではここはすっと慈悲によって語られているようにも思われる。鬼滅はじつに仏教的でもあるわけだ。時代の大きな変動を感じるのは、かの地はまさに改宗して善悪2元論を「生んだ」土地でもあったのだろう。
やはり語り方・語り口が問題になるだろう、難しいことは簡単に語っては容易に誤解を生み、まずい、と思われるわけだ、が。![]()