さて、これからの祐太郎には、どんな障壁や困難が待ち受けているのか。

祐太郎がこれから歩いていく道々で、数々の越えていかなければならないものに遭遇していくと考えると、その背景やわが国の現状などを一つひとつ丁寧に紐解いていかなければならない、と。内なる情念の世界だけではとても凌げない、とも。そう想うのです。

 例に出して悪いのですが、あのフランスの哲学者サルトル。敗戦後のわが国の若い世代に多大な影響を与えた御仁のお一人です。時世に流されずわが道を行く。それも過去のしがらみをものともせず、自論を唱える。孤独の路を敢えて選択。でもサルトル自身はそのような生き方を選んだのではなく、その生き方しかできなかったのかもしれません。

 それはそれで選択の一つです。では祐太郎はどんな想いでそれに立ち向かっていくのか。彼を同心円の中心に譬えるのならば、どんな困難の輪がこれから重なっていくのか。

 ナショナルフラッグの関連組織に従事していた時とは全く違う、あるいはもっと自身の無力さに打ちのめされる重圧、多くの法律や規制、あるいは条例を含め、加えて世間に居座る数々の慣習や皮相的な解釈の蔓延、それらにも対峙していかなければならない、と思うのです。

 地方に舞い戻った彼には、その抑圧と分断、孤立などとも戦っていかなければならないのです。彼の研究や宇宙空間での試みは、ある種、現実の社会とは乖離した場所に席を置いていた故のことだったのです。

 その世界でもあらたな軍産複合の手が伸びる。では一般の社会には、あるいは庶民にはどのような物理的圧力、それも直接、間接を問わず、そのベクトルが様々な事象を越えてもなお、引き続き粛々と強化されている、となると。

 数日前の紙面。政治と金の問題が大きく取り沙汰されている最中においても、中央集権的な動きが一層図られている記事が載っていました。

『地方自治法改正へ、想定外の事態に国に指示権、自治体と意思疎通不可欠』、と。一時、非常事態宣言の条項をあらたに現憲法に追加する動きが中央にも強く胎動していました。

 想定外の事態、自然災害がそうです。そのなかには今回のコロナ禍も含まれています。が、必ずしも自然災害だけでの対応では済まない、と。一昨年の12月に、閣議で了承された専守防衛に関する改訂三文書における有事の事態。これにも適応する可能性があるのです。

 この言葉を使うのは憚れるのですが、つまり戒厳令(マーシャルロー)にも適応が可能なのです。現在でもそれに適応する法律、《武力攻撃事態法》などがすでに施行されている、と紙面では報じられていました。

 今回、今年の3月にも閣議決定の上、国会に提出される地方自治法の改正。地方自治の独自の自治権を超えて国からの指示が直接可能になるとなれば、その解釈の範囲は下手をすると留まるところを知らない、とも紙面を見ながら予想していた次第です。

 こんな言葉も使いたくないのですが、皮相の改革の裡に本質が見え隠れしている、とも予見できるのです。この動き、江戸期の庶民に知らされた高札の如くにも観えてきます。それに今でも地方交付税にはその役割が加味されてもいるのです。

 現在の1700余りの自治体に、今回の改正案がどのような作用をもたらすのか。そこに住まいされる多くの方々の生活が今以上に良くなるのかどうか。そこには一つながりの上意下達の政策では、とても御せないあらたな英知の集合が必要だ、とも観えていたのです。

 長くなりました。

              2024年1月27日 NOBU