書類や子供のプリント収納どうしてる?
断捨離で最も時間がかかったのが、思い出の品々。
特に、子供達の幼い頃の作品などは、格別である。
二度と手に入らない物だけに全部取っておかなけれなならないような気持になるが、
本人達にとってみれば意外にも「捨てていいよ」なのである。
2年くらい前だったか、実家の母から段ボールが届いた。
中には、私の小学生時代の手紙やら幼稚園時代のクレヨン作品集。
20年くらい前に家を新築した際にもちゃんと取っておいてくれたようだ。
「そろそろ終活じゃないけど・・・」
前々から、両親には物を減らすように言っていた。
母は結構思い切りがいい方で、ガンガン処分して、
今暮らしやすいものを残すようにしていた。
それで、最後まで残っていたのが私の『思い出』の品々。
送られてきた品々は、正直忘れていてどうしても必要なものではなかった。
せっかく40年以上とっておいてくれたのだし、宅配便までかけて送ってくれたのだから、
即座に捨てることもできない。
とりあえず、中身を見ることにしてダニでもついていそうな古い紙を見てみる。
ほぼろくでもないもの。
小さいころから別に絵心もない私が、別に楽しく書いたわけでもない絵。
やらされて書いたような図工の品。
友達と授業中に交換したメモ用紙を色々な形に折り曲げた交換手紙。
硬いものがあると思ったら、昔よく見たノートアルバムみたいなものが出てきた。
小学校卒業時のみんなからの寄せ書きの紙を集めてファイルしてある。
小学校時代は、随分自分勝手で、悪ガキ、クソガキだった。
いわゆるいじめっこ?ガキ大将?
反省を引きずっていて、ちょっと思い出したくない。
捨ててしまう前に、怖いもの見たさでちらりと表紙をあけてみる。
パリパリという古いセロファンが鳴る音がした。
「いつも遊んでくれてありがとう!中学で離れちゃうけどまた会いたいなあ」
「鼓笛と〇〇ちゃんだけが学校の楽しみでした!本当にありがとう」
「いつも勉強教えてくれてありがとう!それからいっぱい遊んでくれてありがとう!」
どの友達も遊んでくれてありがとうと書いてあった。
中には私と遊ぶことだけが楽しみだったという子まで・・・。
私は嫌な奴だった筈なのに、記憶と友達からのメッセージが合わない。
友達からもらった、中学受験のお守りや、フェルトで作った犬か狸か分からない手作人形のプレゼントも一緒に入っている。
もしかすると、私は思ったよりいいやつだったのかもしれない・・・。
確かに、いろんな友達と遊んだ。
クラスのどの子と遊ぶというわけでもなく、「今日遊べる?」と言われれば、公文と書道との合間の30分であろうと
スケジュールをぶちこんで、一緒に遊んだ。
誰と遊ぶにも、私が勝手に決めた遊びで遊ぶのだから、自分は楽しい。
私が楽しそうにしていれば、一緒に遊んだ友達も楽しめたのかもしれない。
私が考えたトランプ占いがあった。ゲームも相手のことなど気にせず、常に本気モード。
勝手に主導権を握って「いつどこでだれがどうしたやろう!」と遊びは決めた。
相手が女子でも男子でも、動物でも大人でも、誰でも楽しかったから、「男だけ」と言われようとお構いなし。
嫌がる男子に無理やり混じって交換記念切手の集まりにも参加した。
変な小学生だったとは思う。
しかし、それほど嫌な奴ではなかったのかもしれない。
母が送ってくれた思い出の品によって、私の小学生時代の思い出は少し良い方に書き換えられた。
長年持ち続けた反省は消え、わりと子供らしくのびのび生きていたと思えるようになった。
せっかく送ってもらった品々は、心に留め「ありがとう」と廃棄した。
変な虫とかついていたら嫌だから。
さて、わが子の話に戻る。
「捨てていいよ」
と言うけれど、大人になったら
「なぜ捨てちゃったの?」
と怒られるかもしれない。
だから、私は思い出の品は、写真をとってから捨てている。
作文や書道の作品も写真にとれるからたくさん残せる。
立体の物は困るが、次女は図工が得意ではない。
学校から持ち帰る際に落としたり一部破損しているため、家に持ち帰った時点でガラクタになっているから、かえって捨てやすい。
長女は工作は得意なので、使える作品を作ってくるから、自分の部屋でインテリアになっている。
プリント類は、スキャニングしてメディアに残すようにしている。
スキャニングが少し手間だが、溜まってしまった後のどんよりを思えば、
給与明細だとか、健康診断結果だとか、見られなくてとてもいい。
そして残ったもの、プリントされた写真。
子供達の手形、へその緒。
赤ちゃん時代の手形、足形。
保育園時代の手形、足形。
小学校で緊張して固まる集合写真。
イベントではしゃぐ笑顔。
うん、いつみてもかわいいねえ・・・。